尾道漫遊記(1)
岡山へ
4月4日から6日にかけて、岡山・尾道・高松へ旅に出た。今年に入り、ずっと俗事に揉まれ続け、心も身体もすり減っていたので、ここいらでリセットしたかったためだ。
初日、快晴。朝7時の新幹線で宇都宮を出立。8時過ぎにはすでに東海道新幹線の車中にいた。最近、岩波現代文庫で再販された瀬戸内寂聴の『諧調は偽りなり』が面白く、すぐに1冊読了。景色をあまり堪能はしなかったものの、雪をまとった富士山が綺麗だったので思わず撮影。11時半にはもう岡山に着いていた。
岡山駅前の桃太郎たちの像には必ずハトがとまっている。
てっきり、ハトも桃太郎のお供かと思った
岡山へ着いて、路面電車で中心街へ。旅先で書店を訪れるのが好きなので、紀伊国屋書店へ行く。その後、お昼を食べようと歩くも、なかなか決められず。その後、下着を買おうとユニクロがある駅前のイオンへ。そして隣接する高島屋でかつおのたたきを食べる。地場のものをまた食べ損なった。そして、定宿のある倉敷へ移動。
約3年ぶりの倉敷は、特になにも変わっていなかった。駅近くのコンビニへ入れば、派手な化粧をした女性たちがいたし、ヤンキーっぽいお兄ちゃんもいた。なにも変わっていない。久しぶりに来た感じがあまりしなかった。脳内には、Procol Harumの”She Wandered Through the Garden Fence”が流れていた。
宿へ向かう前に、駅前の天満屋の地下でお土産を購入。そして15時にチェックイン。早々に大浴場へ向かう。誰もいない大浴場は贅沢だ。このために、わざわざ遠くまで来たと思うと嬉しくなった。
風呂を出で部屋に戻った後、仕事の後処理が実はまだ残っていたので早々に片付ける。机に置いてあったマッサージの案内を見て、せっかくだからとやってみようと予約を入れる(実は初めてなのだ)。17時過ぎ、頭皮と顔面のマッサージを受けた。あれこれ話をしながらあっという間に時間が経ってしまった。気持ちが良かった。その後、部屋にもどって読書。明日は尾道だ。(続)
明けました
おめでとうございます。写真は毎年の恒例となりました、寓居から南東方向に拝した初日の出。遠く筑波山へと続く稜線がオレンジと青のグラデーションできれいに描かれているようです。今年も晴天で何よりです。
さてさて、平成29(2017)年がはじまりました。昨年、ここで4つの目標を掲げました。けれども、昨年もあまり達成できたという実感がありませんでした。そういう訳で、今年も懲りずに目標を掲げます。
- 適度な運動(ウオーキングなど)
- 今までチャレンジしなかったことにあえて飛び込む
- 小樽へ行く
- 仕事とまったく関係のないことをする
昨年と変わっていないものもあれば、あれ、ちょっと違うんじゃね?というものもあります。個人的には、5月に小樽へ電車で(ここ重要)行きたいと思っています(昨年は仕事の都合で行けなかったのです)。
そして、今の生活がどうしても仕事中心で回っています。これはゆくゆくは、僕という人間の幅を拡張できずにいる恐れがあります。なので、なるべく僕という人間の可動域を広げるため、仕事中心のライフスタイルから少し遠ざかってみようと思ってます。
そんな訳で、細かいところはまだまだたくさん「あれやりたい」「これやりたい」がありますが、まあそれは意識していればいいなと思ってます。
本年も宜しくお願い申し上げます。
輝く!積読状態の書籍アワード2016(下)
サブカル?の底力
今年も内容はもちろんのこと、装丁や収録された写真のインパクトに圧倒された書籍に出会うことができました。ありがとうございます。いろいろあって迷ったのですが、そんな中選ばせていただいたのは・・・
- 作者: 都築響一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2012/03/24
- メディア: 単行本
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大著です。ずっしりとした重さもさることながら、ページをめくると、文字とイメージの荒海に一気に飲み込まれます。僕は泳ぎきる体力に自信がないので、積読状態にしております。昨今の日本の不気味な右傾化の中、本書が語る「右傾化」(23区東部)のディープでアーシーな雰囲気にむせかえること請け合いです。ちなみに、著者の『圏外編集者』(朝日出版社)を僕は折に触れて読み返しては、自分に鞭打っております。
図録
今年は仕事柄、多くの図録を購入しました。限られた予算の中で制作された中、どれもこれもすばらしい図録の数々でした。いろいろあって迷った中で選ばせていただいのは・・・
- 作者: 村山知義
- 発売日: 2015
- メディア: 大型本
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2012年2月に開催された企画展の図録です。村山知義という人は「多彩」と一言では片付けられない人です。ベルリンでいちはやくダダや構成主義といった新興芸術を吸収し、日本の近代美術に大きな影響を与えましたし、演劇も小説も書く、日本共産党員でもあり、蔵原惟人とともに日本プロレタリア文化連盟(コップ)結成に尽力し、トランスジェンダーなダンスパフォーマンスもするなど領域横断的な活動をしていた人です。かれの仕事の全貌をまとめたこの図録を4月に京都国立近代美術館へ行った際、ようやく購入できた思い出深い1冊。ですが、時間と体力がないと落ち着いて読めないので、これまた積読状態となってしまっている訳です。
しなやかだけど骨太な学術書たち
今年もそこそこ学術書というものを購入しては積読状態にしてしまってました。もちろん、読みたいから購入していたのですが、目先のことに振り回されたり、自分に言い訳をしたりしているうちにこんなことに。そんなこんなで選んだのは・・・
九鬼周造 理知と情熱のはざまに立つ〈ことば〉の哲学 (講談社選書メチエ)
- 作者: 藤田正勝
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/07/12
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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近年、九鬼周造研究はかなり進んできた印象がありました。岩波文庫で九鬼の著作が出されもいます。そんな中、今年(2016)は九鬼周造没後75年ということもあってか、『現代思想』でも特集号が発行されたりと彼の業績が注目されています。京都大学で日本哲学史を教えていた著者による本書は、九鬼周造研究の里程標になる予感があります。九鬼はロゴスとパトスのはざまにゆらめいた人だったので、ロゴスが凶暴になり、パトスが反乱を起こしている現代にふさわしい哲学者として見直されているのかもしれません。
そんな訳で年間アワードは?
以上、6部門に分けてそれぞれ振り返ってみました。では、2016年積読状態の書籍の中で選ばれた1冊はこちらです。
- 作者: 蓑原敬,宮台真司,代官山ステキなまちづくり協議会
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2016/06/30
- メディア: 単行本
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いやあ、これなんですよ。実は積読状態ではあるのですが、すでに150ページほど読み進めているのです。ですが、全部で500ページ近くある本書の情報量がすごい。正直ついていけてません。日頃運動をしていないでフルマラソンを走るようなものです。ですが、面白い。宮台真司氏の膨大な知識量に裏打ちされた饒舌のみならず、建築界の大御所でもある蓑原敬氏のこれまた該博な知識と理路整然とした語り口で、難しいけれども惹きこまれてしまう1冊。ミネルヴァ書房はいい本を出してます。
来年はどんな書籍に巡り会えるのか、今から楽しみなのです。とはいえ、節約をしていかなくてはならないので、来年は積読状態の解消がテーマになりそうです。が、やっぱりたくさん買ってしまうのでしょうね。仕方ないですが気をつけます。
本年も拙ブログを読んでいただきありがとうございました。よい一年をお過ごしくださいませ。
輝く!積読状態の書籍アワード2016(上)
どうも、大変ご無沙汰しております。お元気でしょうか?毎度のことながら、今年もあっという間に年の瀬となってしまいました。となると、年末恒例の積読状態の書籍から振り返る時期が来たということでもあります。
2016年購入した書籍は138冊。そのうち、積読状態の書籍は77冊。約56%買ったのに読んでないことになります。そう考えると、昨年よりはちょっとは読書をしたということになるのでしょうか。だからといって、偉そうなことはまったくもって言えません。
さてその中から、今年購入した積読状態の書籍の中でどれがアツかったを各部門別にノミネート3作品ずつ挙げて決めようかなと思います。
小説を久しぶりに読もうと思ったので
- レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)『高い窓』(ハヤカワ文庫)
- インゲボルク・バッハマン(松永美穂訳)『三十歳』(岩波文庫)
- イタロ・カルヴィーノ(脇 功訳)『冬の夜ひとりの旅人が』(白水Uブックス)
今年は久しぶりに小説を読もうと思わせてくれた一年でした。そのためか、すでに読了してしまった小説がそれなりにあるのですが、それでももったいぶる僕の性格上、何冊かは積読状態の書籍もある訳で、そんな中選んでみたのは・・・
- 作者: イタロ・カルヴィーノ,脇功
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2016/10/06
- メディア: 新書
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久しぶりに版元を変え復刊したこちら。実はちくま文庫版ですでに所持してもいますし、20代の頃に読了しているのです。けれども、改めて購入し直したのは、それだけ初めて読んだときのインパクトが残っていたこともさることながら、白水Uブックス版は装丁が作品イメージと近いと感じたらからです。ちくま文庫版よりも値段は倍近いのですが、タイトルどおり「冬の夜」にふさわしい静かでアツい小説です。
新書を甘くみることなかれ
今年は例年以上に新書をたくさん交流しました。それだけ、新書の内容が充実していたんだと思います。エントリーする作品選定でもかなり迷ったのですが、その中で選んでみたのは・・・
保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)
- 作者: 宇野重規
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2016/06/21
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今年は国内外の政治をめぐる動向は激動といっても過言ではありませんでした。とりわけ、アメリカ大統領選挙でまさかのドナルド・トランプが大統領に選ばれるという想定外の出来事もありました。近年の政治における保守化の動きやトランプ登場という背景は、保守主義のもつ豊穣な土壌ではない、やせほそった土壌から生まれた産物であることを本書を通じてわかるはず。
音楽流行今昔
いつも通り、音楽に関する書籍もそれなりに購入しました。いつもならすぐに読むのに、今年は何かともったいつけて積読状態にしてしまいました。そんな中から選んでみたのは・・・
- 作者: 若杉実
- 出版社/メーカー: シンコーミュージック
- 発売日: 2016/03/31
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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今年はアナログ・レコード再評価が新聞などメディアで多くとりあげられた年だったと思います。個人的には、今回選んだ『東京レコ屋ヒストリー』こそ、今のアナログ・レコード・ブームを支えた50代以上の人たちをめぐる文化史的背景を知るすぐれた1冊だと思っております。アナログとディジタルが交差する地点こそ、素晴らしき音楽の世界があるのです。著者は足利出身で僕と(おそらく)同世代ということもあり、僕もなんだかだで影響を受けていた「渋谷系」なるジャンルについて検討を重ねた著書を執筆しています。そんな訳で、いつか仕事を頼みたいという希望も込めて選びました。(続)
後藤明生revisited(下)
後藤明生が醸し出すグルーヴ感に浸ること
『挟み撃ち』は当時の僕にとってはロックであり、リズム&ブルースだった。ちょっと抽象的な表現だけれども、要はこういうことである。日々の労働に浸された身体にとって、リズム&ブルースというスウィング感のあるリズムとビートにシャウトしたくなるような「何か」が後藤明生の文章にはあった。つまりグルーヴ感に浸っていたのだ。
と、ここまで書いてみて、もしかしたらこのようなグルーヴ感は『挟み撃ち』以上に『首塚の上のアドバルーン』にこそあったのかもしれない。『首塚の上のアドバルーン』は、千葉の幕張に越してきた〈わたし〉がマンションの14階のベランダから「こんもり繁った丘」を発見するところから物語がはじまる。そこから、見えない連想の糸に導かれるように、次々と中世そして近世の物語空間そして現代を往還してゆく。そんな作品だった。
『挟み撃ち』と『首塚の上のアドバルーン』を読み比べてみると、前者のグルーヴ感は逸脱の快楽であり、後者のグルーヴ感はつないでゆくことの快楽とでも言おうか。そのどちらが、当時の僕には心地よかったかどうかはあまり興味がない。グルーヴ感そのものに浸っていたということ自体が、当時の僕の労働と読書と音楽体験がひとつになっていたという事実を今確認できれば十分である。そして、そのことを(再)発見できたことの方が重要だと思っている。
後藤明生redux
『後藤明生コレクション』が発刊されたことで、僕は再び25歳の時に身体を浸していたあのグルーヴ感を再訪できるかもしれない。そんな淡い期待を抱いている。しかし、あの時と同じグルーヴ感を味わえるとはまったく思っていない。再訪(revisited)というよりも戻ってきた(redux)という意味での後藤明生的グルーヴ感を改めて体感できることへのひそやかな悦びの方が勝っている感じが凄くしている。25歳の頃の僕には決して戻れないし、また戻りたくもない。けれども、あの夏に味わい浸っていたグルーヴ感が、今も僕の心の奥底にあり続けていたことを再発見できたことが嬉しいし、また紙と電子両媒体で後藤明生が生き続けるできているという事実こそ言祝ぎたい。
Goto Meisei redux!
- 作者: 後藤明生
- 出版社/メーカー: アーリーバード・ブックス
- 発売日: 2013/12/01
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後藤明生revisited(上)
ついにコレクションが
最近、後藤明生の周辺が賑やかだ。大変めでたいことである。思えば、彼が亡くなった1999年以降、僕はてっきり、ほどなく全集がでるものだと勝手に思っていた(しかもK談社で)。しかし時は流れ、彼の作品が気軽に読める文庫版も品切れとなっていった。そして、この昨今の賑やかさである。正直、感慨がひとしおである。
思えば、機運は数年前からあった(と思う)。きっかけは2013年10月、後藤明生の実子である松崎元子さんが代表を務める「アーリーバードブックス」による後藤作品の電子書籍化だろう。それからというもの、twitter上での後藤作品を読んだ人たちによる感想などを読みながら、こんなにも後藤明生の作品に親しんでいる人たちがいたことに驚いた。そして、今年(2016年)秋の『後藤明生コレクション』刊行開始である。国書刊行会からの刊行というのもサイコーだ。「文学の冒険」そして「未来の文学」シリーズ等を企画している出版社だから、このコレクションはその流れを受け継いでいると勝手に思っている。
場所は揃った。あとは、読み手が集うのみである。いやあ、めでたい。
思い出 〜後藤明生との出会い〜
さて、ここで個人的な思い出話をしたい。
僕が後藤明生の作品と出会ったのは25歳の時。当時、大学院の試験に落ちてそのまま大学を卒業し、定職につかずにいた。また大学院を受験しようとしていたからだ。家庭教師・パソコンのインストラクター、そして発掘現場の作業員をかけもちで仕事をしていた。
そんな日々を過ごしていたある暑い夏の日、僕は講談社文芸文庫版の『挟み撃ち』を購入した。きっかけは、同じく講談社文芸文庫の『近代日本の批評2 昭和篇(下)』を読んだこと。ここで、蓮實重彦が「内向の世代」について語っている中で、後藤明生をかなり評価(というか一押し)していた。そこで『挟み撃ち』について言及していたのが強烈な印象として残っていた。それで実際に読んでみたいと思ったのだ。
一読して、ぎっしりつまった文字と行間。そして、「饒舌体」とも言える途切れることなく続く文章。これが夏のうだるような暑さと相まって体力がありあまっていた僕にはグッときた。そして、弧を描くようになだらかに話題が脱線していくあたりに、また強烈なインパクトを覚えた。ほぼ同時に読んでいた安部公房の『砂の女』とこの小説が25歳の夏であり、その年の夏の全てだった。
さて、『挟み撃ち』のどこがなぜ凄いのかあまりわからないまま、熱にうかされたかのように、発掘現場で一緒に働いていた3歳年上の同僚に「これ、面白いっすよ」と勧めた。そして彼も早速購入して読んだことを報告。「ロックだ」と答えたことが今も印象に残っている。そう、『挟み撃ち』は、当時の僕にとってロックであり、さらに言えば、リズム&ブルースだった。(続く)
- 作者: 後藤明生
- 出版社/メーカー: アーリーバード・ブックス
- 発売日: 2013/11/30
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- 作者: 柄谷行人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/11/10
- メディア: 文庫
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長めの原稿を書いていると
最近、長めの原稿を書いています
最近、とある自治体の下水道史の原稿を書いている。予定枚数は400字詰原稿用紙でおよそ320。卒論以上修論未満といったところか。書きはじめたのは、まだ蝉が鳴いていた頃。途中、資料がなくてペンディングを余儀なくされたのと、別の仕事に振り回されて中断をし、4日程前から再び書きはじめている。今のところ、半分は書き終わった。けれども、上を見るとため息ばかり。終わるのかどうか不安である。
こういう原稿なので、一応資料に基づいて書いてはいる。けれども、書いていくとなんだか長編小説を書いているかのような錯覚に陥る。基本的に、こういう長いものを書く場合、できるだけ規則正しく無理せず書くことを信条としている。1日に10枚程度とか。途中、別の急な仕事をこなさなくてはいけないので、このルールを守れないこともある。けれども、とにかく毎日書くことが大切なので、ひたすらパタパタとキーボードを叩いている。
自分の文章をたまには書きたくなる
長めの原稿を書いていると、他に文章を書くのが苦痛じゃないのかと言われることがある。そんなことはない。この手の文章を書いていると、ある時点で無性に自分を取り巻くどーでもいいようなことを書きたくなる。自分の言葉で書きたくなるのだ。原稿は、余所ゆきの言葉なので、段々とだれてくる。そうなると、原稿の文章がだらっとしてきて、つまらなくなる。自分が楽しく書けないとやっていても面白くないし、何よりも文章に現れてしまう。そうならないためにも、自分の言葉で書かないと、と思っている。
仕事の合間に読書と音楽、そして映画を観ること
長めの原稿を書いていると、どうしても読書から遠ざかってしまう。原稿のことで頭がいっぱいになって、読書をする気分にならなくなるのだ。とはいえ、気分と気持ちを切り替えるスイッチとして、読書をするように心がけている。
ちなみに、最近読了したのはこちら。
頭の気分転換?に合間に読んでいた。
運転の際に気分転換に聴いている音楽。最近では、A Taste of Honey"Another Taste"(1979)にSteely Dan"Katy Lied"(1975)そしてMichael Jackson"Off the Wall"(1980)、The Beatles "Revolver"(1966)、Tahiti 80 "Puzzle"(2000)。時たま、The Isley Brotherの"Live It Up"(1974)も聴いている。頭をまっさらにしながら、音に身を委ねるには、夜の運転時が一番だと最近実感した。
そして映画。この3週間でThe Beatlesのドキュメンタリー映画"Eight Day's a Week"を2回観た。はじめて観たときは、よくわからないけど感動して泣いていた(おそらく泣ける映画ではない)。2回目に観たときは、Ringoのドラミングに魅了された。いずれにしても、The Beatlesはいつも新たな発見がある。
なんだか、とりとめのない文章になってしまった。近況といえば、これが近況です(積読がとうとう250冊を超えてしまいました・・・)。
書籍を残し利用してもらうということ
先日、毎朝のルーティンワークとして、インターネット上の情報をあれこれ見ていたら、こんな記事を目にした。
「穴水町立図書館が寄贈図書廃棄」
www.chunichi.co.jp
あー、またこんなことがあったのか。はてなブクマやtwitter上での反応の多くが、この処分をした穴水町教育委員会や司書や最終的に判断を下した上司らへの怒りのコメントが多く見受けられた。
確かに、穴水町がやったことは言語道断である。廃棄する前になぜ確認しなかったのかという初歩的なミスを含めである。とはいえ、これは単に廃棄にかかわった司書や当事者たちだけの問題なのだろうか。システム的な問題も含めて、もっと広く考えてみる必要があるだろう(togetter「穴水町立図書館の寄贈図書廃棄」を参照)。思うに、書籍を寄贈する人と図書館との善意ある幸福な関係というのは決して当たり前ではなくなってきたのだろう。そういったことを考えると、双方に理解のある第三者の介在が必要になるのではと感じている。
寄贈書籍を受け入れることの難しさ
図書館への書籍寄贈の難しさについて、私なりに次の5点にまとめられるのではと思っている。
つまり、受け入れる箱、基準整備、人、そして寄贈者による選択の妥当性が曖昧なままいってしまうと、石川県穴水町のような問題と悲劇があちこちで出てくる(というか、私見の限りでは、報道されないだけで結構あると思っている)。
1については、そもそも小さな町が寄贈図書を受け入れる余力があったのだろうか。そしてここは4の「司書の判断力」がかかわってくる。つまり、ここが寄贈先として最善かどうかという判断である。サービス業でよく言われるところの「相手の立場にたって考える」ことができるかどうかである。
そうなると、5の「寄贈先選択の妥当性」をいったい誰が担保してあげるのかということにもつながってくる。寄贈者は、所蔵していた書籍が公共性があり価値のあるものと判断して図書館への寄贈を思ったのだろう。多くの人たちへ知的財産を還元するのは大変素晴らしいことである。
しかし、である。図書館であればどこでもいいのだろうか?ここの判断はかなり難しい。結果として、書籍が利用されていないという判断のもと廃棄されてしまった。寄贈図書の意義をよくわかってないと指摘されても言い訳できない。穴水町の一件は、そのあたりを如実に現している。
寄贈をするにあたっての第三者の存在
全国どこの図書館でも、書籍の保管問題は抱えている。穴水町のケースは他岸の火事では決してないだろう。しかし、所蔵者が貴重と考えている書籍を公共財産として残したいと思う人たちもいる。では、寄贈の前に寄贈者へアドバイスをしてあげる人たちはいなかったのだろうか?もちろん、知識と経験と情熱のある司書は数多いと思う。けれども、そういう司書に巡り会えない人たちも決して少なくないはずだ。そこで、アドバイザーという第三者の人たちが必要だと考える。
アドバイザーは誰でもいい訳ではない。その条件として、1)図書館とのコネクションがある人、2)書籍の価値判断がある程度できる人、3)万が一図書館への寄贈が叶わなかった場合の方策とコネクションがある人、の3点が条件かなと思う。
アドバイザー的存在の人がいた場合、寄贈したいという図書館が受け入れてくれるかどうかの事前調査をする必要がある。受け入れ可能と思われた場合は、受入れのための根回しをできるかどうかもポイントになる。そしてその際、寄贈したい図書館が寄贈図書の取り扱いについて、何らかの取り決めがあるかどうかも重要だろう。
結局、書籍を生かすも殺すも人次第
さて、書籍は隣にどんな書籍が並んでいるかどうかで、その存在価値がガラリと変わる。ポルノ小説のとなりにアリストテレスの『動物学』が並んでいたらどうだろう?ちょっと探しにくいかもしれないが、これはこれで面白いかもしれない(もっとも、図書館にポルノ小説は置かないだろうけど)。十進分類法を無視していると言われそうだが、そもそも書籍とは、知的関係性(「ネットワーク」あるいは「星座」と言い換えてもいいだろう)の具体化である。穴水町のケースは、日本民俗学会の冊子や岩波書店初版本の芥川龍之介全集(揃)などがあったとのこと。では、仮に廃棄されなかったとしても、いったいどう分類され、どういった配列で開架に置かれ(てい)たのだろう?なんの考えもなしに置かれていたとしたら、廃棄される可能性は高かったのではと思う。
受け入れる側は、ただ単に貴重だからといって受け入れていいのだろうか?寄贈する側は、寄贈したいという図書館はちゃんと書籍を保管し利用してくれるためにベストを尽くしてくれるところかどうか判断する必要がある。そのためにも、図書館をめぐるあれこれといった現実の諸問題といかに折りあいながら闘っていくかが重要である。これは司書にとっても、寄贈者にとってもである。
《追記》
図書館への寄贈が叶わなかった場合、古書店で買い取ってもらうという方法もある。その場合、量販店的古書店ではなく、しっかり目利きのできるおやっさん的古書店がいいのは言を俟たない。そういう古書店は地方の場合、地域と密接にかかわっているのだが、昨今そういう古書店は少なくなってしまった。とはいえ、決してない訳ではない。いずれにせよ、寄贈する前に、第三者へアドバイスをもらえるかどうかが重要だと思う(2016.9.7)。
写真整理(5)
食い道楽 〜真鶴・足利・宇都宮〜
7月下旬、Uさんに誘われて真鶴へ。鈍行列車で4時間
近く揺られて到着。目的はうまい刺身が食べたい!
お刺身定食を注文したが、これがまた色々と出てくる。鯛を中心
とした刺身の盛り合わせ、自家製いかの塩辛(これがびっくりす
るくらいの美味)、鯵の干物(焼き方と身の柔らかさで気絶寸前)
と鰯の煮物、それに鯛のお吸い物がついて税込2400円。
お刺身定食に飽き足らず、相模湾へ来たのだからと名物の金目鯛
の煮付けを注文。切り身で出てくるので上品かつ食べやすい。煮
付けの甘塩っぱさと金目鯛のほどよい淡白さが絶妙。口福とはま
さにこのこと。
そして追い討ちをかけるように、あじ寿司を注文。とても食べや
すく、ひとつ食べたらもうひとつと止まらず食べたくなる。脂も
のっていて、普段どれだけ美味しくない魚を食べていたか痛感。
7月の終わり、足利で名物のソースカツ丼を食べる。ここのソースカツ丼が他のお店と違うのは、「アマランサス」なるヒユ科ヒユ属の一年草がかつの衣に入っていること。足利のソースカツ丼で使うソースは酸味が強く、豚ヒレ肉のさっぱりとした味とともに、しつこくなく食べやすいのが特徴。ちなみに、右の翡翠色をした麺にも、アマランサスが練りこまれている。
7月晦日、ステーキハウスへ。国産サーロイン300gを食す。程よく脂が肉に入っていて柔らかく、フォークにささった肉→口→肉→口のピストン運動が止まらず。値段はそれなりにするが、値段以上の満足感が得られる。やっぱり夏は、単純明快でガツッとくるステーキだ。
(続)