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序列化された「いのち」

 昨今の日本と東アジア周辺諸国との様々な軋轢は、何も今にはじまったことではない。振り返れば一世紀以上も前から続いていることである。
 歴史学者である小松 裕による『「いのち」と帝国日本』は、「いのち」をキーワードに据え、出来るだけ多くの声なき声を拾おうとしたユニークは通史本である。そもそも、小学館の創立85周年記念出版として企画された「日本の歴史」シリーズは、従来の〜時代といった区分で構成されていないのが特徴だ。その中で、本巻は日清戦争から1920年代までを取り扱っている。
 
 今回、仕事の参考資料として本書を読んでいたのだが、個人的興味でもある権力による身体の管理(性・健康)と資本主義の(勝手な)理念に則った(と思い込んだ)膨張政策、そしてその影ともいうべき、東アジアの国々での日本の振る舞いが見事に足並みが揃っていたことに改めて驚いた。そして、国内に目を向けても、身体的弱者に対しての国家の生存権の剥奪に近いような様々な法律による管理も、優秀な身体をもった「臣民」を国家に奉仕させるシステムをつくりだしたのが、1920年代だったことも忘れてはなるまい。
 さらに忘れてはならないのは、いわゆる「大正デモクラシー」と言われ、民主主義的雰囲気が少しばかり充満していた時期にこそ、上記のような国家が個人の身体を管理しはじめた点である。これはつまり、「啓蒙」の名の下に、上から下々へ「光」を与える(英語の「啓蒙」にあたる"Enlightenment"を見よ)という「善」によって支えられた。この「啓蒙」は、与えられた対象者にとって果たしてよきことだったのだろうか?そんなことを考えさせる端緒がこの時期の様々な政策であったと思う。
 
 「啓蒙」という言葉を考えるとき、本巻「おわりに」で著者が紹介している藤本としという女性の言葉を何度も読み返すべきだろう。
 

闇の中に光を見いだすなんていいますけど、光なんてものは、どこかにあるもんじゃありませんねえ。なにがどんなにつらかろうと、それをきっちり引き受けて、こちらから出かけて行かなきゃいけません。光ってものは捜すんじゃない、自分が光になろうとすることなんです。それが、闇の中に光を見いだすということじゃないでしょうか。(本書351-2ページ)

 
藤本は若くしてハンセン病となった。後に目が見えなくなり、身体のなかで唯一感覚が残った舌を頼りに、点字の本を読みあさった女性である。
 僕たちは藤本の言葉を文字通り真摯に、そして忘れることなく生きていかなくてはならない。それが、横暴な権力と対峙するための拠り所となるからである。


「いのち」と帝国日本 (全集 日本の歴史 14)

「いのち」と帝国日本 (全集 日本の歴史 14)