SIM's memo

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道化者をふたたび送る。

 2013年3月に黄泉の国へと旅立った山口昌男という人物は、知る人ぞ知る学者だった。この稀代の道化師に縁のある人たちによる追悼特集が『ユリイカ』に掲載されているのを知ったのは、twitterでフォローしている田中純氏のツイートだった。これは読まなきゃと思い、さっそく近所の紀伊國屋書店で購入。『ゴンクールの日記』と併読するように読んだ(これはこれで、楽しい脳内の切り替えになった)。それぞれの執筆者の文章を読みながら、僕自身のくねくねした知的遍歴の道程をふりかえる旅をしているような気分になった。


 さて中身はというと、特集冒頭、不肖の弟子ともいえる中沢新一と学魔高山宏の対談。なかなか珍しいなあと思い楽しく読む。そういえば、中沢がこの対談で言及し、翻訳者としても名を連ねたアウエハントの名著『鯰絵』が6月に岩波文庫で復刊する。これも山口昌男が黄泉の国からもたらしたプレゼント(ただし注意が必要)か。その他、様々な方々が山口への思い出などを披瀝する中、本特集の白眉は四方田犬彦の「挑発と悲観」と大月隆寛の「『挫折』と『敗者』」だろう。両者のエッセイは言葉こそ異なれ、それぞれの山口像と呼応しあっている。つまり、山口の闘いはつねに孤独であり、「日本」という国そしてアカデミズムからの挫折を経てのペシミズムにおおわれていた、と(ここでは、四方田のエッセイにのみ言及しよう)。四方田は、山口が吉本隆明の『共同幻想論』をこれでもかと批判した「幻想・構造・始原」をめぐる話を振り返る。四方田の文章を読みながら、アルレッキーノ山口は、思想界においてヒーローから王様へと変貌しつつある吉本を「脱構築」し、吉本本来のエネルゲイアである批判力を甦らせようとしたのではなかったのか。そんな思いになる。また四方田が、山口の出世作にして名著『本の神話学』と最後の大著『内田魯庵山脈』をつなげて、山口の知的遍歴が明るさの陰に常に寄り添っていたペシミズムに言及している。そういえば、四方田も大月も、アカデミズムの辺境にいる人である。そういう人だからこそ、山口昌男をある程度客観的に眺められたのだろう。
 
 四方田のエッセイは結構ヘヴィーなものだった。それだけに、次の池内紀のいつもどおりの飄々としたエッセイは不思議と有難く思えた。ちなみに、本特集で四方田とともに白眉といってもいいのが、神話学が専門の東ゆみこによる「師の説になづまざること」か。山口が大病し、身体の自由が思うようにいかなかった頃、日本文化人類学会が開かれた際、山口の昼食にと好物である5個入りあんパンを買ってきたエピソードが面白かった。あんパンを食べ過ぎた山口が東に「途中で気分が悪くなったのはねェ、あなたがあんなにたくさんのアンコパンを食べさせたから」と「雑言」を言われ、ムッとした東が、山口を乗せた車いすのグリップを坂の途中で一瞬放そうかと思った、と綴っている。この一文で、東ゆみこという学者は信用出来ると思った。
 余談だが、twitter田中純氏も述べていたが、この追悼特集では、山口昌男にとって弟子はだれか/何か?という問いかけが結構目についた。若き日に山口が柳田國男が亡くなった直後に、「柳田國男に弟子はなし」と喝破したのを受けてのことだろう。けれども、山口の業績を継いだ人となると、結局いないといわざるをえない。そういう点では、学派についてあれこれ語り、そして自らの歩みを「敗者」「挫折」の道とダブらせていたかのような晩年期のペシミスティックな姿が重なる。
 
 追悼特集というのは、その人の思い出を振り返るだけではなく、その先にある様々な学問的贈物について想いを馳せ、受け取るであろう読者をいろいろと試す、かなり意地の悪い企画であることを改めて思い知った。そういえば、6月にはちくま学芸文庫から山口昌男コレクションが出る。目次を見ていないのでわからないけど、内容によっては購入しようかなと思っている。今月はイギリスは観念学派の泰斗アーサー・O・ラヴジョイの『存在の大いなる連鎖』もちくま学芸文庫から復刊したし、昨年は由良君美の主著も復刊したし、何やら1960年代後半の知的狂騒の匂いがまた漂いはじめている。現状はいかに硬直した息苦しい時であるかの証左とも言えるのだろう。