SIM's memo

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皐月読書漫談

 5月はなんだかだで読書をしていたような感じだった。しかし、上旬の読書と下旬での読書は、その様相がガラリと変わっている。ひとえに、僕自身をめぐる環境あるいは心境の変化である。ここでは上旬の読書をざっとメモみたいに書いておく。


音楽をめぐる旅

 音楽関係の書籍は2冊。いずれも良書と呼ぶに相応しかった。『アメリカ音楽史』(講談社選書メチエ)は、評判のいい本である。文章力も去ることながら、構成と豊富な文献をしっかり渉猟した上で書かれているのがよくわかる。ちなみに、副題は「ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで」である。「ヒップホップ」がアメリカ音楽にもたらした影響・反響がここからもわかる。しかしながら、本書を読んで痛感するのは、「ジャンル」という区分けが現在進行形の音楽にはもうあてはまらなくなってきている、ということ。音楽産業が過渡期に入り、かつてほどの勢いが見られなくなってはいる。しかしながら、それでもなお、音楽に潜在するパワーというのはあることが感じられる。「擬装」を本書のキーワードにすえ、様々な欲望を交差させ生み出される音楽。当然、時代の制約から自由ではないけれども、時代をつくりだすことができるのは確かだ。そんなあれこれを考えさせられる。文化史研究としても優れた一冊であるのは、巻末に付けられた文献案内を読めばよくわかる。本書の白眉とエッセンスは、文献案内にあると思っている。一読を勧めたい。
 で、もう一冊、ダニエル・ラノワ『ソウル・マイニング』(みすず書房)については、すでに拙ブログで書いたので、そちらをよろしければ読んでもらえると嬉しいです。

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

ソウル・マイニング―― 音楽的自伝

ソウル・マイニング―― 音楽的自伝

田中正造をめぐって

 2013年は、田中正造が亡くなって満100年になる。その間、多くの公害問題で多くの人びとが苦しんできた。そしてここにきての原発事故をめぐる問題。田中正造への関心がさらに高まっているように思う。そのひとつに、岩波新書から1984年に出た『田中正造』の復刊である。栃木県に住んでいながら、田中正造についてあまりわかっていなかった。そして関心を払ってこなかった。恥ずかしいことである。田中正造の名が人びとに本格的に知れるようになったのは、1960年代以降だという。その後、1970代半ば頃から岩波で全集の編纂事業がはじまる。本書はその産物のひとつとも言えよう。本書は田中正造の生涯を辿ってはいるが、最大の特徴は政治観あるいは憲法観を知ることができる点だろう。とはいえ、晩年期に獄中で出会った新約のマタイ伝と帝国憲法が田中正造の中でどれだけ矛盾なく一致していたのか等については残念ながらあまり考察されていない。これは現時点での、田中正造研究の課題であろう。谷中村廃村をめぐっての善悪二項対立で論じているのも残念ではある(後年公開された時の県知事白仁武文書を読んでいれば、また違った評価になったであろう)。しかしながら、歴史的人物として田中正造がとりあげられている点は評価できる。
 谷中村廃村から100年にあたる2006年、大手新聞社の宇都宮支局ではそれぞれ田中正造と谷中村あるいは渡良瀬川流域をめぐる連載をしていた。毎日新聞宇都宮支局に勤めていた塙和也氏が4年半の歳月をかけて田中正造と谷中村廃村をめぐる事象や関係者を取材した『鉱毒に消えた谷中村』は出版から5年経った今なお、精彩を放ち続けている。ただ、フィリピンでの公害問題を採り上げている点は、人によって評価がわかれるかもしれない。あくまで、田中正造というiconをめぐる問題として描いて欲しかったという点において。もっとも、フィリピンにおける公害問題は、かつての日本の近代化におけるネガ・ポジのような関係とみれば、塙氏の谷中村廃村という問題がアクチュアリティをもっていると考えていた結果だと納得はできる。
 いずれにせよ、2013年だからこそ、本書は今一度読まれるべき一冊である。

田中正造 (岩波新書 黄版 274)

田中正造 (岩波新書 黄版 274)

鉱毒に消えた谷中村―田中正造と足尾鉱毒事件の一〇〇年

鉱毒に消えた谷中村―田中正造と足尾鉱毒事件の一〇〇年