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日本国憲法前文をはじめてちゃんと読む(7)

現行憲法と改正草案を読み比べる 〜第3段(下)〜

 前回は、改正草案前文の第3段で述べられている「…であるべき」という「当然」のニュアンスについて、『日本国憲法前文に関する基礎的資料』(衆憲資第32 号、以下『資料』と略す)に掲載されている前文の意義と照らし合わせて批判した。また、「基本的人権を尊重する」という文言に関して、現行憲法前文を振り返りつつ、改正草案前文の第3段で述べられている「とともに」あるいは『Q&A』において、前文第3段の内容説明において「国民は国と郷土を自ら守り、家族や社会が助け合って国家を形成する自助、共助の精神をうたいました。その中で、基本的人権を尊重することを求め」たという箇所の「その中で」がもつ意味を批判的に見てきた。
 ここで改めて、改正草案第3段を引用しておこう。

【改正草案】
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

 

家族や社会について前文で触れるということ

 『Q&A』によると、「家族や〜」以下の文言は「家族や社会が助け合って国家を形成する自助、共助の精神をうた」ったものだという(5ページ)。これを踏まえて、改正草案第24条第1項には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」と言わしめている。前文や第24条第1項に新たに「家族の規定」を「新設」した背景として、「昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われてい」るため、と『Q&A』で述べている(16ページ)。さらに『Q&A』によると、この文言は「世界人権宣言 16 条 3 項も参考にし」たという(16ページ)。参考までに、「世界人権宣言16条3項」を引用する。

家族は、社会の自然かつ基礎的な単位であり、社会及び国による保護を受ける権利を有する。

改正草案が参考にしたのは、「社会の自然かつ基礎的な単位」という文言であり、家族の権利に関しては参考にしていない。内容も去ることながら、「家族の絆が薄くなってきていると言われてい」るという「伝聞」によって、憲法の条文を新設できるものなのか、と疑問に思ってしまう。そして、憲法において、「社会の自然かつ基礎的な単位」としての「家族」のあり方を規定すべきなのだろうか?もしも、憲法の条文で謳われている「家族」のあり方と反するならば、その「家族」は「基本的人権の尊重」を得られなくなるのではないか。前文に限らず、ここの文言と「基本的人権の尊重」はいったい整合性があるのだろうか。家族のあり方というのは、決して不変ではないはず。「家族」をあたかも「国家」に包摂するような文言で、「社会の自然かつ基礎的な単位」としての「家族」を縛るのはまったくもっておかしい。「家族」が「国家」へ包摂される論理こそ、文言以上に注意しなければならない。
 

「自由」は規律を伴うものか? 〜改正草案第4段について〜

 つづく改正草案第4段はこのように述べられている。

【改正草案】
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 まず主語が「我々は」となっている。おそらく、「日本国民」を指しているのだろう。その「日本国民」は「美しい国土と自然環境を守りつつ」「国を成長させる」ために「自由と規律を重んじ」ること、と述べている。「美しい」という形容詞は、自由民主党の方々のお気に入りの言葉である。この形容詞が「国土」にかかることで、国「土」を内面化し*1、国家と個人が無媒介に結びつけている。「美しい国土」といういささかロマンチックな言葉から、僕はどうしてもナチス・ドイツの「血と土」を想起してしまう。
 
 さて、「自由」という言葉はすこぶる厄介である。一般に、「自由」は「責任」とワンセットと考えられる。憲法の場合、現行憲法第12条で「この憲法が国民に保障する自由及び権利は…濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と明記されている。となると、「自由」を読み解くためには、現行憲法における「公共の福祉」、改正草案における「公益及び公の秩序」について見ておく必要がある(続く)。

*1:「美しい」という言葉は、そもそも「日本の美しい自然」「美しい心」など人のこころに訴えかける好ましさ、というニュアンスを含んでいるように思う。