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SIM's memo

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反=恋愛小説として 〜漱石『門』を読む(4)〜

Books Thoughts
門をくぐれた御米、くぐれなかった宗助(2)

 宗助が御米の心身の不調と入れ替わるように、不安に苛まれる直接のきっかけとなったのが、かつての友人安井の存在であった。崖上に住む大家の坂井家主人の弟が蒙古におり、そこで知り合った友人というのが安井であった。その安井が坂井家主人の弟とともに帰国し、坂井家に出入りしていることを宗助は坂井家主人から知らされる(十六の四・五)。宗助はなんとか意識を外へ持っていこうと、御米を誘って寄席に行ったり(十七の三)、「牛肉店」で「酒を呑」むも「酔へなかつた」(十七の四)。そして、職場の同僚からの紹介で鎌倉の禅寺を紹介してもらい、「山門」をくぐろうと決意する(十八の一)。そこでしばらく、座禅と老師が発した「父母未生以前本来の面目」という公案について考える日々を過ごす。しかし、結局答えらしい答えを出せぬまま、禅寺を後にした(二十一の二)。


 
 さて、鎌倉での参禅という出来事は、御米にとっての体調不良による「地獄巡り」に相応すると考えている。御米の場合は受動的に己の身体へと潜っていったのに対し、宗助の場合は自ら進んで、参禅という能動的な「地獄巡り」に赴いた訳である。

彼は冷たい火鉢の灰の中に細い線香を燻らして、教へられた通り座蒲団の上に半跏を組んだ。(中略)彼の頭の中を色々なものが流れた。(中略)頭の往来を通るものは、無限で無数で無尽蔵で、決して宗助の命令によつて、留まる事も休む事もなかつた。断ち切らうと思へば思ふ程、滾々(こんこん)として湧いて出た。(十八の五)

参禅という行為は、宗助が当初考えていたであろうこころに平安をもたらしてくれる訳ではなかった。むしろ己の脱俗できぬ人間らしさを痛感せざるを得ない行為であった。

宗助はまた考へ始めた。(中略)凝としてゐるのはたゞ宗助の身体丈であつた。心は切ない程、苦しい程、堪えがたい程動いた。
其内凝としてゐる身体も、膝頭から痛み始めた。真直に延ばしてゐた脊髄が次第々々に前の方に曲つて来た。宗助は両手で左の足の甲を抱える様にして下へ卸した。(中略)夜はしんとしてゐた。寝てゐる人も起きてゐる人も何処にも居りさうには思へなかつた。宗助は外へ出る勇気を失つた。凝と生きながら妄想に苦しめられるのは猶恐ろしかつた(十八の五)。

頭の中が騒々しい状態のまま、身体はそれに呼応するかのように宗助にシグナルを出す。鎌倉での日々は、基本的にはこのような心身のさざなみというノイズに支配されていたと言っていいだろう。とはいえ、宗助は鎌倉にいる間、眠れない日々を過ごしていた訳ではなく、むしろよく眠っている(e.g.十八の五など)。となると、決して自らが発するノイズに四六時中苦しめられていた訳ではなく、御米同様、眠りを通じて無意識裡に身体へ降りていっていた。ただ、核心部に行くことなく、逃げ帰ってしまうのだが。
 
 ところで、宗助は鎌倉での参禅で世俗とまったく距離を置いていた訳ではない。宗助は鎌倉到着2日後に御米へ手紙を出す(十八の七)。御米も手紙を宗助に二度出すのだが、どういった中身かは記されていない。ここでは、中身が重要なのではなく、宗助にとって外とのつながりが御米であるという点を確認できればよい。さて、自他という観点から宗助を眺めてみると、彼にとって「他者」とは誰かというのが、最大の問題となってくる。彼が怯えているのは、安井という存在ではなく、安井という「他者」なのである。さらに述べれば、安井というもうひとりの自分と言ってもいいだろう。宗助は何故御米と一緒になったのか。単に愛していたからか?はっきりとした答えが記されていないのでわからない。しかし、御米は自分と他者をつなぐ「媒体」(Medium)のような存在である。その点がもっとも出ているのが、鎌倉という内なる世界と世俗という外なる世界にいる御米との手紙のやりとりであろう。宗助は世俗を忘れようとして鎌倉へ来たが、結局世俗を断ち切れないでいる。
 鎌倉の禅寺を後にする時、「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」という声を耳にする。そして、この参禅が「丸で時間を潰しに来た様な」何も変わることもなかったと思っている(二十一の二)。

彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時迄も展望を遮ぎつてゐた。彼は門を通る人ではなかつた。又門を通らないで済む人でもなかつた。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であつた。(二十一の二)

宗助は「独り」では門をくぐることも「開けて入」ることもできない人間である。しかし、「他者」と接触するための「媒体」として御米がいるため、宗助自身は出来なくても、御米と二人ならできる可能性は高い。ちょうど、ダンテの『神曲』におけるウェルギリウスのような役割を御米が宗助に対して担っていくのだろう。鎌倉での参禅で宗助は果たして気づいていたのか。おそらく気づいていないだろう。ただ、御米がいる限り、宗助の他者をめぐる問題は永遠に独力で解決できない。御米が先にいなくなるか、御米を象徴的に殺さない限りは無理だろう。己の身体に降りて行くという行為は、他者との接点を見いだす行為である。そう見ると『門』という小説は、恋愛がひとつの重要なタームではある。しかし「他者」を知るには格好の行為である恋愛の先にある、もうひとつの「他者」をめぐる物語が『門』だと思っている。(終)
 

門 (岩波文庫)

門 (岩波文庫)