SIM's memo

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AVについて勝手ながら真面目に向き合ってみる(1)

 2013年9月のおわり頃に書いた記事のアクセスがやたらと多かった。調べてみると、"Gunosy"という登録者の興味にあった情報を収集してくれるサイトからのアクセスだった。


 恥ずかしながら、Gunosyとやらをまったく知らなかった小生は、Gunosy経由で拙文が多く読まれていたことに、ひと月遅れで恥ずかしく感じた。内容がAVにまつわることだったのもあるのだろうが、それとは別にこうも思った。アダルト・ヴィデオ*1に関する真面目な記事は思いのほか少ないのではないか、と。そこで、AVにおけるプロトコルと受容する「ぼく」について考えてみたい。
 

AVと向き合う「ぼく」→AV女優

 まずAVにおけるプロトコルって何か?である。簡単に述べれば、AVの約束事である。作品によっても違うだろうけど、AVにおけるプロトコルは、最小公倍数の欲望を惹起することにあると考えている。ここには、見る側が蕩尽とファンタジーの混在に身を置く(あるいはincubate:自動詞)できる余地を与えることが前提である。最小公倍数の欲望を惹起する基本的なソフトは、複数プレイからソフト・ハードSMなど嗜好性とともに多岐にわたる。そこに出演する女優や男優という個性、さらに両者の演技力やそこからにじみでる人間性などが絡まり合う。これらをまとめあげていくのが、監督の力量であろう。そうして出来上がったAVと「ぼく」は対峙する。見るものが飽きず、嗜好性にはまって面白いと感じる作品もあるだろうし、なんだ、オカズにならねぇなあと思い、好みの女優が出ていてもつまらないと感じる作品もある。ここから先は、AVにおける監督論へと傾いていく(なので割愛)。おそらく、一般的にAVを見るものにとって、一番向き合う存在はAV女優という個性である。「ぼく」のなかから湧いてくる欲望のコードたちをやさしく、時に激しく包み込む存在としてのAV女優。(続く)

*1:略称として以下、AVと表記する。