SIM's memo

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AVについて勝手ながら真面目に向き合ってみる(2)

AV女優という存在

 そもそも、AV女優というペルソナには、「性の商品化」あるいは「自由意志」がくっついている。そのペルソナを身につけながら、彼女たちはカメラに向けて饒舌に「わたし」を語る。「AV女優」というペルソナは基本的に、だれかから強制的にさせられる役割ではなく、ある日突然生まれる。そして「AV女優」であることを自分の意志で辞めることができる。しかし、ここには微妙な差異がある。「微妙な」という言葉こそ、「AV女優」をめぐる危うくも脆弱な衣をまとわせる。「危うくも脆弱な衣」とは、「AV女優」になっていくわたし=女性である彼女たちおける「身体や性を売ることの中毒性」のことである。その点が垣間みられるのが、AV女優である彼女たちは、みずからのことを饒舌に語っていることだ。勿論、作品に出る前のいわゆる「面接」の時からカメラを回し、なるべく素である彼女たちの姿と、実際にセックスをする彼女たちの姿のギャップから興奮してもらおうとする演出もあろう。しかしながら、そうした演出を飛び越えて、彼女たちの個性は作品の演出を軽々と飛び越えることが多くみられる。見る「ぼく」にとって、彼女たちと向かい合うことは、思う程楽しくまた快楽を得るための有効なツールとはならない(と思う)。「見る」という安全で快適な立場を彼女たちの言葉によって常に揺れ動かされ、時にぼくのいる「見る」という立場を壊す装置となっている。ファンタジーと一瞬垣間みられるリアル(と見る「ぼく」が感じる)な彼女たちの存在の狭間で、欲望のコードを抱えている「ぼく」は不安定なままである。
 
 では、それでも何故AVを見続けるのだろう?端的に答えを述べれば、AVを通じて「ぼく」という存在をつねに対自化していかないと不安なため、そしてそんな不安な状態にもかかわらず、それが揺籃のように心地よく、逃げ場ともなるから、である。つまり、きわめてアンビヴァレントな感情のうねりが快楽となり心地よいからだと思う。(続く)