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嫉妬

「愛のさなかに生じる感情で、愛する人が自分以外の誰かを愛しているのではないかというおそれから来る」(『リトレ国語辞典』)
 
 上の引用文は、ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』(邦訳:みすず書房)に収録されている「嫉妬」の劈頭に掲げられている。ちなみに、『大辞泉』で「嫉妬」を調べると、「[名](スル) 1 自分よりすぐれている人をうらやみねたむこと。2 自分の愛する者の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと。やきもち。」とある。両者とも「愛する人の愛情が自分以外の他者に向けられていることからくる感情という点では似たことを言っているように見える。しかし、『リトレ国語辞典』は「…ではないかというおそれから来る」と記述しているのに対し、『大辞泉』では「他の人に向けられるのを恨み憎むこと」とよりはっきりした負の感情に重きを置いた記述になっている。この差は実は大きい。
 
 嫉妬は何よりも、不在の愛する人への不在であるが故に沸き上がってくるさまざまな感情が引き起こす喜劇である。愛する人の客観的な情報を「私」がいくつも持っていて、それらを積み重ねて「〜ではないのか?」といささか心もとない推理で導き出した「おそれ」である。確かに、嫉妬のあまり愛する人を「恨み憎むこと」ことはあるかもしれない。しかし、それは嫉妬の一面にすぎない。「おそれ」も「恨み憎む」という感情の根っこにあるものは「苦しみ」である。両者とも、愛する人の目にははっきりと見えない不確かな感情を想像するから苦しいのだ。しかし、両者の苦しみにこそ、先に述べた差がある。「おそれ」には、愛する人の不在からくる「寂しさ」「恋しさ」と接する繊細さがある。対して「恨み憎し」みには、他者を抹殺しかねない暴力性が内在している。「おそれ」には、愛する人とのほどよい距離感を生じさせるわずかながらの可能性がある。しかし「恨み憎し」みには、そうした距離感を破壊する。
 
 愛する人は誰のものにもなれない。誰のものにもなれないからこそ、「私」と愛する人との関係性にほどよい距離感と緊張感が必要になる。数十年前、九鬼周造の『「いき」の構造』をはじめて読んで、そのあたりの意味がよくわからなかった。けれども、今改めて読み返してみると、『「いき」の構造』で言わんとしていたことが少しばかりわかるような気がする。自分のものに決してなることができない他者と「私」の間に横たわる「寂しさ」「恋しさ」を力づくで克服するのではない。その緊張感と距離感を楽しむ自由な関係にこそ、「寂しさ」「恋しさ」を決して克服しえない人の境地があるのではないか。そこには「嫉妬」なんていう野暮な感情は表出することはできない。
 「嫉妬」というが表出した時にこそ、もしかしたら、新たに愛する人との関係性を構築できるチャンスなのかもしれない。チャンスはそう沢山ある訳ではないのだから、みすみす見過ごす訳にはいかないだろう。
 改めてまた、九鬼周造読み返そう。
 

恋愛のディスクール・断章

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「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

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