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小林多喜二の最期を綴った書簡をめぐって(2)

石井友幸書簡を読む(1)

 では、今回公開された3通にはどのようなことが書かれているたのか?まず、昭和37(1962)年1月10日付書簡(便宜上、「書簡A」とする)を見てみよう。小林多喜二が築地署で拷問を受けて息をひきとる際、「『日本共産党万才(ママ)!』とさけんだというのはまちがいで、それは多喜二をいたずたらに英雄化せんとする浅薄な試みである」と述べている。そして、江口渙が多喜二が房にほうりこまれた時に多喜二の母親への伝言を言ったように書いているが、このことも石井は「多喜二は房の中に入れられたときは、口もきくことができないほどに危篤状態になつていたように思いますので、私は小林のとなりの房にいて耳をしまして(ママ)いましたが、多喜二は苦しさでたゞうなつているだけで、ひとことも口をきかなかつたように思います」と否定している。とはいえ、石井はつづけて「しかし私は小林の房の中にいたのではありませんので、このことがまちがいなくそうだといいきる自信はありません」とも述べている。
 そして、多喜二が拷問死をして房から運び出されたときのことを次のように綴っている。

房内のみんなが『赤旗の歌』をうたつたことはまちがいのない事実で」「小林が殺されたことに対するくやしさと憤りとで、じつとだまつていることができず、きわめて自然に『赤旗の歌』をうたうきもちになつたものと思います。私もそんなきもちで、みんなといつしよに歌をうたいました。歌は房内がいつせいにうたいだしたので、看守はどうすることもできず、私たちはあの歌全部をうたいきることができたのでした。

最後に石井は自らの記憶を基に、築地署の略図を書いて、手紙をしめくくっている。
 
 さて、書簡Aの冒頭で「昨日小林多喜二の最後のありさまについて御手紙さしあげましたが」と綴っている。今回、江口旧宅で見つかった2通の書簡と1通のハガキの前に、石井は江口に手紙をしたためていたことがうかがえる。しかし現時点では、江口旧宅で昭和37年1月9日付にしたためたであろう石井からの書簡は見つかっていない。
 ところで、昭和42(1967)年6月、日本共産党中央委員会発行の『文化評論』(第67号)に、「江口渙氏への手紙―小林多喜二の最後について」と題した石井から江口へ宛てた書簡が公開されている。こちらは、昭和42年3月7日付(書簡B)だが、『文化評論』誌上には編集部でところどころ「編集」している。たとえば、『文化評論』では書簡Aに添付された築地署の略図が描かれている。また『文化評論』では読点がふられている箇所が2つあるが、書簡Bには読点はまったくふられていない。とはいえ、書簡Bの文意は変更していない。
 この書簡が誌上にでて、どのような反応があったのかはわからない。48年の時を超え、一度は陽の目を見た本書簡が、小林多喜二研究の深化、そして資料発表の時期とタイミングによって、その反応が変わることにつくづく考えさせられる。(続く)