SIM's memo

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後藤明生revisited(下)

後藤明生が醸し出すグルーヴ感に浸ること

 『挟み撃ち』は当時の僕にとってはロックであり、リズム&ブルースだった。ちょっと抽象的な表現だけれども、要はこういうことである。日々の労働に浸された身体にとって、リズム&ブルースというスウィング感のあるリズムとビートにシャウトしたくなるような「何か」が後藤明生の文章にはあった。つまりグルーヴ感に浸っていたのだ。
 と、ここまで書いてみて、もしかしたらこのようなグルーヴ感は『挟み撃ち』以上に『首塚の上のアドバルーン』にこそあったのかもしれない。『首塚の上のアドバルーン』は、千葉の幕張に越してきた〈わたし〉がマンションの14階のベランダから「こんもり繁った丘」を発見するところから物語がはじまる。そこから、見えない連想の糸に導かれるように、次々と中世そして近世の物語空間そして現代を往還してゆく。そんな作品だった。
 『挟み撃ち』と『首塚の上のアドバルーン』を読み比べてみると、前者のグルーヴ感は逸脱の快楽であり、後者のグルーヴ感はつないでゆくことの快楽とでも言おうか。そのどちらが、当時の僕には心地よかったかどうかはあまり興味がない。グルーヴ感そのものに浸っていたということ自体が、当時の僕の労働と読書と音楽体験がひとつになっていたという事実を今確認できれば十分である。そして、そのことを(再)発見できたことの方が重要だと思っている。
 

後藤明生redux

 『後藤明生コレクション』が発刊されたことで、僕は再び25歳の時に身体を浸していたあのグルーヴ感を再訪できるかもしれない。そんな淡い期待を抱いている。しかし、あの時と同じグルーヴ感を味わえるとはまったく思っていない。再訪(revisited)というよりも戻ってきた(redux)という意味での後藤明生的グルーヴ感を改めて体感できることへのひそやかな悦びの方が勝っている感じが凄くしている。25歳の頃の僕には決して戻れないし、また戻りたくもない。けれども、あの夏に味わい浸っていたグルーヴ感が、今も僕の心の奥底にあり続けていたことを再発見できたことが嬉しいし、また紙と電子両媒体で後藤明生が生き続けるできているという事実こそ言祝ぎたい。
 Goto Meisei redux!
 

首塚の上のアドバルーン 後藤明生・電子書籍コレクション

首塚の上のアドバルーン 後藤明生・電子書籍コレクション