小林多喜二の最期を綴った書簡をめぐって(1)
2015年2月17日付毎日新聞社会面で「小林多喜二:最期、生々しく…隣室収監の学者が書簡に記す」が掲載された(webサイトでは16日夜配信)。
「隣室収監の学者」というのは、当時東京高等師範学校の助教授兼東京文理大学*1の講師をしていた石井友幸(1903〜1972)のこと。昭和7(1932)年に創立された研究団体である唯物論研究会に入っており、会誌『唯物論研究』に積極的に投稿していた生物学者である。昭和8(1933)年2月20日、小林多喜二が築地署へ連行された時、石井は留置所の第一房に入れられていて、多喜二は第二房に入れられたという。
これまで、プロレタリア作家・小林多喜二(1903〜1933)が昭和8(1933)年2月20日に築地署で拷問死された前後については、確たる資料がほとんどなく、関係者からの証言などで半ば伝説化されたきらいがあった。しかし今回の客観的資料が発見・公開されたことにより、小林多喜二研究が少し進んだことのみならず、当時の治安維持法下における取り調べの様子を伝える生々しい証言のひとつとして、広く知られるようになるだろう。
折しも、2月20日は小林多喜二の命日である。ここでは、著名な小林多喜二というよりも、書簡のやりとりをした石井と作家の江口渙(1887〜1975)について記しておく。今回発見・公開された書簡がより立体的に浮かび上がってくるからだ。
石井友幸書簡の背景
今回、栃木県那須烏山市にある江口渙旧宅からみつかった石井からの書簡は計3通。そのうちの2通は原稿用紙に、1通ははがきに綴られている。石井から出された日付は、昭和37(1962)年1月10日(便宜上、「書簡A」とする)と昭和42(1967)年3月7日の書簡(「書簡B」とする)と同年3月10日のハガキ(「ハガキ」と略す)。書簡AとBは、渋谷は千駄ヶ谷の日本共産党中央委員会(文化評論編集部)気付で江口に宛てられている(ハガキでは烏山の江口宅宛)。石井から書簡が届いた頃は、江口は日本共産党中央委員会で発行していた『文化評論』で「たたかいの作家同盟記」という記録文学を連載する前だった。「たたかいの作家同盟記」は、昭和39(1964)年11月から執筆しはじめ、昭和42年3月に脱稿したという*2。
石井はこの頃、『進化論の百年』(新読書社出版部、昭和35[1960]年)や『猿から人間へ』という児童向けの書籍(岩崎書店、昭和38[1963]年)、あるいは鳥取県の米子市にあるたたら書房から昭和42(1967)年に出版された、チミリャーゼフ『植物の生活』の共訳者のひとりとして名を連ねていた。その一方で、千葉県東金市の自宅でミチューリン農法*3に基づいて、畑や養鶏をおこなっていた。(続く)