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「情」の世界

 徳太郎尾崎紅葉の『多情多恨』(1896=明治29年)を読んだ。玄人筋では、『金色夜叉』よりも評判がいい紅葉の代表作のひとつだ。一読して、なるほどこれは面白い。全体にテンポもよく、言文一致で書かれている。筋もわかりやすい。『読売新聞』に連載されていただけあって、読者の喜びそうなところでうまく盛り上げるすべも心得ている。


 『多情多恨』のあらすじは単純である。物理学校の先生で20代後半の鷲見(すみ)柳之助は、最愛の妻を亡くし、文字通り涙に暮れる日々を過ごしている。見かねた親友の葉山誠哉はいろいろと励ますものれんに腕押し、鷲見はますます亡き妻への追慕にとらわれるばかり。鷲見は鷲見で、こういう状況を打開するべく、葉山の家へ遊びに行きたいが葉山の妻であるお種が苦手でなかなか足が向かない。半ば強引な葉山の勧めで葉山の家へ移り住むことになるが…
 とまあ、ざっとこんなあらすじである。本作の魅力がどこにあるのか?メモがわりにいくつか列記しておく。
 

キャラがたっている

 主人公の鷲見柳之助という男はとにかくよく泣く。その姿を紅葉は一歩ひいてコミカルにシニカルに描いている。なんせ、てもちのハンカチ5枚が涙でいつもカピカピなのだ。冗談ばかりだが粋なふるまいで男気のある友人の葉山とは対称的だ。その上、鷲見は相手の都合構わず、おのれの感情に(よく言えば)忠実、悪くいえば身勝手。妻を亡くして悲嘆にくれつつ、うじうじとし続ける。こうしたキャラを紅葉は、サディスティックなまでに描いていく。100年以上前の作品なのに、こういうヤツいるよね、とにやりとしてしまう。また、女性たちもよく描けている。葉山の妻のお種をはじめ、亡き妻の妹のお夏にその母親、葉山の家で働く下女たち3人(この数に注目すべし)が実に面白く描かれている。女性蔑視がまったくないといったらウソになるけれども、当時とすれば、なかなかに男女公平に描けているのではないか。こうした登場人物たちを支えているのが、喜劇小説としての下地である。
 

コミック・ノベルとして

 『多情多恨』が単なる情をめぐる他愛のないお話だったら、あまり面白くもなかっただろう。本書が今なお色褪せず輝いているのは、作者が登場人物たちから一歩二歩とひいたところから描いているためだ。そのパースペクティブを支えているのが、コミカルでシニカルな態度だ。岩波版の全集で解説を書いている丸谷才一は、本書がイギリスのコミック・ノベルにその淵元を求めている。個人的には、ジェイン・オースティンの一連の小説の雰囲気に近しく感じられた。その他にも、江戸後期の滑稽物の雰囲気もあるが、これは登場人物たちのキャラ設定に強く残されているといえよう。
 

タイトル

 本書の題『多情多恨』は、まさに本書を一言であらわしている。「多情多恨」は、主人公鷲見に一番よくあてはまる。しかしながら、本書に登場する主な人物たちは、多かれ少なかれ、「多情多恨」な人たちである。ところで、この題の意味するところは、「物事に感じやすく、心に悩みが絶えない様子」である(『新明解国語辞典』)。そう考えると、その最たる人物は、やはり主人公である鷲見であろう。しかしながら、本書の登場人物たちを支えているのは「情」である。葉山の妻のお種は、当初は鷲見のような人物を半ば軽蔑していたのに、何故最終的には鷲見のストーキングとも思われても仕方がないような行動にほだされていくのか?何故葉山は馴染みの藝者や親しい人たちに対して、終始冗談ばかり言い続けるのか?これらの疑問を「情」というフィルターで眺めてみると、われわれ人間の感情をめぐる物語が見えてくるだろう。僕は、本書とフローベールの『感情教育』を対にして眺めたい欲望にかられる。その場合、本書からは葉山を軸に眺めてみると面白いかもしれない。
 

とにかく一読されたし

 『多情多恨』は、今読んでも十二分に楽しめる小説だ。文語体である『金色夜叉』よりも読みやすい。残念ながら、文庫で唯一読める(であろう)岩波文庫は現在品切れである。とはいえ、はじめは少々主人公の鷲見の態度に辟易してつまらなく感じられるかもしれない。しかし、鷲見が真夜中3時ころに葉山の家をふらふらと訪ね(ここだけ読んでいただければ、究極のピュア青年鷲見という人物がわかるだろう)そこで葉山の妻のお種と応対するあたりから、物語が俄然面白くなってくる。なので、はじめの100ページまでは我慢されたし。ヘンリー・ジェイムズの『黄金の杯』『鳩の翼』のように400ページ読まなければ小説が動かない訳ではないのだから。
 

多情多恨 (岩波文庫)

多情多恨 (岩波文庫)