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反=恋愛小説として 〜漱石『門』を読む(1)〜

 明治43(1910)年に発表された漱石の『門』を久しぶりに読み返した。最近、あまり小説を読まなかった(読めなかった)が、一気に読了した。今読んでも古さを感じさせない。あれこれ、問いがちりばめられている。これこそ、文学の文学たる由縁だろう。そんな訳で、『門』を読むにあたって、2つ自分なりに問いを与えてみた。

  1. 宗助はいったい何に悩んでいたのか?
  2. 『門』における御米という存在とは?

この2つの問いに通底するのは、『門』は反=恋愛小説であるということだ。そこに入る前に、まずは『門』のあらすじをざっと書いておく。


あらすじ

 役所勤めをしている野中宗助は妻の御米、下女の清と薄暗い崖下の借家でつつましく暮らしている。夫婦仲はとてもいい。しかし宗助夫妻には重く暗くたちこめる過去があった。京都での学生時代の友人安井と内縁関係にあった御米となかば駆け落ち同然で広島へそして福岡で生活をする。やがて、学友の斡旋で東京で役所勤めができるようになる。その間御米は3度妊娠するも、流産・死産あるいは生まれてまもなく死んでしまう。御米の体調不良、弟小六の問題、あるいは家主の坂井家にかつての友人安井が坂井家当主の弟とともに満州からやってきている事実を知る。煩悶する宗助は、救いを求めるように同僚の紹介で鎌倉のとある禅寺へ参禅する。しかし、悟りも煩悶も消えることなく下山する。やがて、小六の問題が片付き、坂井家に来ていた安井も満州へと戻っていってしまう。季節は春であり、宗助夫妻はまた平穏な日常を過ごすことになる。
 

宗助夫妻はどう描かれているか?

 少々長くなったが、ざっとこんなあらすじである。では、2つの問いを考えるにあたって、まず宗助夫妻はどう描かれているのかを見てみる。

二人の間には諦めとか、忍耐とか云ふものが断えず動いてゐたが、未来とか希望と云ふものゝ影は殆ど射さない様に見えた。(四の五)

 宗助と御米とは仲の好い夫婦に違ひはなかつた。一所になつてから今日迄六年程の長い月日をまだ半日も気不味く暮らした事はなかつた。(中略)彼等に取つて絶対必要なものは御互丈で、其御互丈が、彼等にはまた充分であつた。(十四の一)

彼等は六年の間世間に散漫な交渉を求めなかつた代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。彼等の命は、いつの間にか互の底に迄喰ひ入つた。(中略)けれども互から云へば、道義上切り離す事の出来ない一つの有機体になつた。(中略)彼等は大きな水盤の表に滴たつた二点の油の様なものであつた。水を弾いて二つが一所に集まつたと云ふよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添つた結果、離れる事が出来なくなつたと評する方が適当であつた。(中略)彼等は此抱合の中に、尋常の夫婦に見出し難い親和と飽満と、それに伴なう倦怠とを兼ね具へてゐた。(十四の一)

とにかく、宗助夫妻はとても仲のよい夫婦である。「尋常の夫婦に見出し難い親和と飽満と、それに伴なう倦怠とを兼ね具へてゐた」という表現に表れているように、凡百の夫婦に捧げられた言葉ではないのは読んでいてわかる。それにしても、通常、ここまで夫婦仲のよさ以上の言葉を紡いでいる小説は珍しいだろう。さらに、次の文章になると、もはや宗助夫妻が単に夫婦仲がいいだけではすまされない、なにかおどろおどろとした情念による結合の持続を語っているように感じる。

彼等は人並以上に睦まじい月日を渝(かは)らずに今日から明日へと繋いで行きながら、常は其所に気が付かずに顔を見合はせてゐる様なものゝ、時々自分達の睦まじがる心を、自分で確と認める事があつた。その場合には必ず今迄睦まじく過ごした長の歳月を遡のぼつて、自分達が如何な犠牲を払つて、結婚を敢てしたかと云ふ当時を憶ひ出さない訳には行かなかつた。彼等は自然が彼等の前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪づいた。同時に此復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一瓣(いちべん)の香を焚く事も忘れなかつた。彼等は鞭たれつゝ死に赴くものであつた。たゞ其鞭の先に、凡てを癒やす甘い蜜の着いてゐる事を覚つたのである。(十四の一)

この文章を読むと、宗助夫妻は結婚してもなお、愛の焰にひっそりと静かに身をこがしつつ、「凡てを癒やす甘い蜜の着いてゐる」情念という「鞭」を文字通り甘受しているように書かれている。
 

After the catharsis

 となると、『門』という小説は、単に夫婦仲のいい若い男女をめぐる物語とは単純には言えなくなる。宗助夫妻に関するこれらの描写には、あらゆるものを犠牲にしてまで成就しようとした恋愛の果てにある究極のかたちを意地悪く提示している。つまり、どういうかたちであれ、究極の恋愛のいきつく先としての肖像画として、これっぽっちも恋愛を賞賛する気がない(であろう)漱石によって描かれた反=恋愛小説ではないかと思えるのだ。
 ポイントは、宗助夫妻の日常の営みが一見すると平凡に見えるが、かれら自身の有り様は、決して平凡ではない。ここで、宗助夫妻の関係が一種のカタルシスを迎えたのが、友人安井から御米を奪った(というよりも、御米と計ったという表現の方が正確だろう)時と見なして考えてみよう。ここで使わせてもらったカタルシスとは、アリストテレスによると、悲劇における「あわれみとおそれを通じて(δι´ ἐλέου καὶ φόβου)感情のカタルシスを達成するものである」*1。感情の「あわれみとおそれ」が過ぎ去った後には、日常という「親和と飽満と、それに伴なう倦怠」しか残されていない。ヴァルター・ベンヤミンゲーテの『親和力』において、オッティーリエの死というカタルシスを通じて、死、震撼、崇高がもたらされた後に必ず救済の希望が見出されると考えた。では『門』の場合、ベンヤミンが『親和力』を通じて読み解いたところの救済の希望をどこに見いだすか?強いて見いだすとすれば、読者にとっても宗助夫妻にとっても、カタルシスが過ぎ去った後の日常を如何にサーヴァイヴしていくか、という宗助夫妻たちの振る舞いを通じて考えるしかないように思える。
 恋愛がカタルシスを迎えるための悲劇的な予兆を常に秘めた行為だとすれば、『門』は恋愛小説として読むことも可能かもしれない。しかしここには、明らかに恋愛小説としてのカタルシスは失われている。世間というエデンの園から放逐された宗助夫妻が、日常を如何にサーヴァイブしているか。その日常の一端を読者は一緒に辿ることで、カタルシス以降、もっと言えば、神話的世界からの決別と懊悩という現代に生きる人たちの肖像を見せているのではないか。そう考えると、『門』は恋愛小説としての醍醐味ははじめから失われている。そして、宗助と御米が手に手を取って、神話なき世界を生きているように見えるが、その実は決して一枚岩ではない。その姿を見るためにも、御米にフォーカスをあわせて読む必要がある。(続く)
 

門 (岩波文庫)

門 (岩波文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

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*1:岩波文庫版邦訳34ページ