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日本国憲法前文をはじめてちゃんと読む(4)

現行憲法と改正草案を読み比べる 〜第2段〜

 つづいて、前文第2段を読んでみる。まずは現行憲法から。

【現行憲法】
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

第2段は、前回読んでみた第1段と比べて読んでいて理解しやすいだろう。つまりは、「恒久の平和を念願し」ながら「平和を維持」する平和主義と「平和のうちに生存する権利を有する」平和生存権を述べている。とりわけ、「国際社会において」、自国のみの平和を追求するのではなく、「全世界の国民が〜平和のうちに生存する権利を有することを確認」しながら、平和への「決意」を述べている点に注目すべきである。
 つづいて、自由民主党による改正草案の第2段を読んでみよう。

【改正草案】
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。

一読すると、こちらも「平和主義」について述べているように受け取ることができる。しかしながら、第2段の主語が現行憲法では「日本国民」*1に対し、改正草案では「我が国」となっている。となると、そもそも「平和主義」とは誰/何にとっての「平和主義」となるのか意味が異なってくる。また、現行憲法が、日本国にのみ目を向けて述べているのではなく、他国へも目を向けているような文言になっているのに対し、改正草案はあくまでも「我が国」にとっての「平和主義」に主眼が置かれているように映る。
 

問題点 〜現行憲法への牽強付会な批判〜

 ここで問題にしたいのが、現行憲法では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文言に対し、改正草案についての『Q&A』で「ユートピア的発想による自衛権の放棄にほかなりません」と批判している点である(5ページ)。どこを読めば、現行憲法のこの文言が「自衛権の放棄」と解釈できるのか、素人である僕にはまったくわからない。「平和主義」とは、単に自国のみが安全に暮らしていければいいものではないはず。あくまでも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」た上で、お互いに話し合い歩み寄るといった理性的に調整をしていくものだと思う。「自衛権」については、たとえば国連憲章第51条における「自衛権」の様々な解釈があり問題になっているので、注意すべき権利である*2。そこを何の留保もなく、現行憲法の文言をつかまえて「自衛権」の、しかも「放棄」と述べて批判するのは牽強付会も甚だしい。
 さらに、「今や国際社会において重要な地位を占めており」と述べているが、これはあくまでも自由民主党の見解であり、一体誰/どこから眺めて述べたつもりだろうか?おそらく、現行憲法で「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」を受けて、さらに突っ込んで述べたのであろう。とはいえ、管見の限りで、他国の憲法前文でこのような文言を書いている国はない。「重要な地位を占めている」と判断するのは、あくまでも他者(と敢えて言おう)の関係性からである。現行憲法は「われらは、全世界の国民が〜平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べているように、自分たちの立ち位置を相対化しながら、あくまでも他者を踏まえて平和生存権を述べている。改正草案には、他者との関係におけるわれわれの憲法というスタンスは微塵もない。この点は、次の第3段の前文を読むとよりはっきりわかるだろう(続く)。

*1:憲法においては、天皇を除いた日本「国民」をさす。

*2:安田・宮沢他『自衛権再考』知識社、1987年、214〜225ページ参照。