僕の平成史(8)〜平成最後の日と鰻重〜
平成8(1996)年以降、これといって特筆すべきことは私にはなかった。確かに東日本大震災や家族のことなど色々あったが、若い頃のインパクトを考えると、それほどでもないような気がしてきた(なので、前回の僕の平成史からだいぶ時間が経ってしまった言い訳にはならないだろうが)。
今日は雨の中、これまた雨に縁の深い群馬は板倉に鎮座する雷電神社参道の小林屋で鰻を食べてきた。ここの名物はなまずの天ぷらとたたきあげなのだが、鰻がびっくりするくらいリーズナブル。並で1750円、上で2,000円、特上で3,300円。同行した社長から鰻重をふたつ食え!と言われ、上を2ついただく。鰻はもちろん美味だが、甘じょっぱいタレとからむごはんがとても美味しかった。美味しいお米を食べるのは幸いである。
いろいろあった平成30年と4ヵ月、その最後で鰻重を2ついただけたのと、帰り途中にデニーズでチョコレートサンデーを食べられたのは幸いだった。食べ過ぎた。夕方、退位礼正殿の儀のTV生中継を観ることもできた。なんだか、大晦日のような雰囲気がしてきたが、元号が変わるというのは、日本で暮らすとひとつの大きな節目だというのを痛感した。
明日から、新しい元号のもとで過ごす。とはいえ、あまりピンとこない。変わらず過ごせればいい。
僕の平成史(7)〜大きな事件と自分の生活〜
平成7(1995)年、今にして思うと大きなシフトチェンジを感じることが多かったような気がする(しかし、不思議な違和感も今にして思うと感じる)。1月17日の早朝、阪神淡路大震災で被災地を中継するTV映像が今なお焼き付いている。そして、普段買わない緊急出版したアサヒグラフの別冊を買った。3月20日、地下鉄サリン事件。事件一報の速報などのニュースを見た記憶がない。それは、私がこの時友人が住む浜松町へ向かうため、当時住んでいたところから向かっていたからだ。
4月に入り、Weezerのデビュー・アルバムを聴きつつ、Kalapanaやboo radleysのアルバム、大瀧さんの"Niagara Moon"が私の周囲を包み込んでいた。これらのアルバムを聴くと、今はなき池袋のセゾン美術館で開催していたバウハウス展を思い出す。
1月17日から4月の終わりの期間を振り返ると、社会の大きな出来事と自分の周囲の出来事が妙にアンバランスな感じがする。これが「不思議な違和感」である。どこか暗い影が私の肩をそっと叩いていた感じがする。このあたりから、平成10(1998)年2月頃までは、ただただ息苦しかった。どこかで、自分自身をもてあまして、ちぐはぐだった。そんな感じをこれから幾度となく経験するとは思いもしなかった。(続)
僕の平成史(6)〜やっぱり音楽がそばにあった〜
平成6(1994)年は田舎者(私)が人が多い場所へ進学のため移住した年である。移住早々にしたことは、CDを買ったことである。それもなぜかSweetの"Give Us a Wink"邦題は「甘い誘惑」。しかし、なぜこれを購入しようとしたのか、まったく思い出せない。その数日後に購入したのがSUGAR BABEの"SONGS"で、これは4/10発売当日に購入した。なぜなら、発売を心待ちにしていたから。このアルバムの思い出については以前本ブログで書いたので省略するが、四半世紀前のちょうど今頃を思い出す。
その後購入したのが、Jeff Beck Groupの"Orange Album"の名で親しまれているアルバム。そして、今では忘れられたグループのような気もするMother Earthの"People Tree"はAcid Jazzレーベルから出た傑作。当時の私は、カート・コバーンが亡くなったショックを片隅に置きつつ(生きていれば、という表現はあまり意味はないけど、52歳という響きにちょっと意外な感じもする)、このアルバムとThe Style Councilの"Café Bleu"を聴きまくった。とにかくイケてない田舎者の内面には、ファンキーでアーシー(!)な音が鳴り響いていた。いつも心にSmall Facesがいた訳である。
とはいえ、夏になれば、The Beach BoysやNed Dohenyなどチャラい?感じのウエストコーストの音楽も聴いていたので、それなりに楽しんでいたような気もする。やっぱり、いつも心に音楽があったのは幸福だったという証拠なのだろう。(続)
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僕の平成史(5)〜ただひたすらに音楽を渇望す〜
平成5(1993)年、私は高校3年になっていた。友人が亡くなった後、今自分が生きているという「現実」をずっと感じられないまま、虚しさから目を背けるように、淡々と日々を過ごしていた。そんな中、夢中になれたのが音楽だった。バイブルは渋谷陽一氏の『ロック ベスト・アルバム・セレクション』(新潮文庫)と地元の図書館にあった主なロック・ミュージシャンたちのチャート全集みたいな本。今のように、YouTubeで検索して試聴してなんてできなかったので、ただジャケ買いするか、田舎で唯一聴くことができたNHK-FMで夜9時から放送していた「ミュージック・スクエア」*1などを聴いて気に入ったのをCDで買うことだった。
私は60〜70年代の洋楽を好んで聴いていたので、当時ラジオで放送されることはあまりなかった。なので、比較的昔の洋楽が流れた「ミュージック・スクエア」はとても愛聴していた。この番組で私はSqueezeやXTCなどUKのニュー・ウエーブ期の音楽に接触した。その一方、Little Featや10CC、Stevie WonderやSteely Dan、Orleans、果てはThe Crusadersなどを聴いていた。当然、まわりでそんなのを聴いている人たちもおらず、夏になればThe Beach BoysだThe WhoだDerek & the Dominosだなんて言ってる人はまったくいなかった。かといって、音楽において孤独を感じたことはなかった。あんなに音楽を渇望して夢中になって聴けたのは、後にも先にもこの時だけだった。
夏の終わり、仲の良かった女の子が通う女子校の文化祭へ行った。看護学科に通っていたその女の子たちの同級生は、なんだか大人びていた。子どもだった私は、ヘラヘラしながらただただ中身のない漫談のような話をしゃべり続けていた。
今にして思うと、やっぱり音楽でも埋められなかった虚しさや「現実」を感じられなかったのかもしれない。とはいえ、音楽は常に私のとなりにあった。その事実のみが、仄暗く、寂しい高校生活の思い出を照らしてくれている。(続)
*1:私が夢中に聴いていた時期のDJたちは、平成3年3月までの担当だった。
僕の平成史(4)〜友人の死と「幻想」〜
平成4(1992)年、高校2年になる。11月、高校で数少ない仲の良かった友人がバイク事故で亡くなる。相手の過失が原因だった。そして、時をほぼ同じくして、当時好きだった女の子に振られた。
この頃のことを思い出す度に、私はオフコースの「幻想」(1975年)という曲が脳内に流れてくる。作詞は小田和正、作曲は鈴木康博。この曲にこんな歌詞がある。「傷つき合いながら/互いになにもできなかったのは/ただてれていたから/それだけじゃないだろう/ああ いっさいの世界に目をつぶって/みんなを 包めればいいのに/愛がすべてじゃないにしても」。
今でもここの部分を口ずさむと胸が熱くなり、なんとも言いようのない感情にとらわれる。ちなみに、2回目のサビでは「ああ いっさいの言葉に目をつぶって/みんな 信じ合えればいいのに/愛がすべてじゃないにしても」である。
この曲が私の脳内で流れている時間は、これから生き続けられたであろう亡くなった友人の時間のことを思ってしまう。しかしそれは「幻想」にすぎないとわかっていても。
あれからちょうど四半世紀が経とうとしているのに、「幻想」を聴くとあの頃の空気が一気に立ち昇ってきて、私の周囲を包み込む。どんなに時間が経とうとも、この空気感だけはアップデートされず、四半世紀前の、あの時のままである。(続)
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僕の平成史(3)〜ドラマの再放送と『桃尻娘』との出会い〜
平成3(1991)年4月、私は自宅から片道1時間20分ほどかかる公立男子校へ入学した。首都圏にお住いの方には、片道1時間20分なんてそんな遠くないだろうと思われるかもしれない。しかし、こちらは田舎である。まず自宅から最寄駅まで、片道6kmを自転車で約20分。残り1kmに300m程続く坂道を登らなくてはならないという苦行がある。それから電車で30分揺られて学校の最寄駅に下車。それから片道4kmを自転車で約10分かけて通う。これを3年間。こうして振り返りながら書いていても辛いことしか思い出せない。学校から一刻も早く離れたかったので、部活には入らずさっさと帰宅した。昨年の今頃、この頃の淡い思い出を書いたのだが、今にして思えば、もう少し日々を楽しむようなことをうまくやれたのではないかと思ったりする。
ところで、私が通う学校は毎年5月下旬に85kmを26時間かけて歩くという行事があった。辛かったが、毎日学校に通うことを考えれば、思いのほか辛いと思うことはなかった。ただただ、学校へ行くのが苦痛だった。私にとっては、この3年間はムショ暮らしのような感じだった。だからだろうか、どうも窮屈で一箇所にとどまるというのが、社会人になってますます苦手になってしまった。
この年のささやかな楽しみは、急いで帰宅してドラマの再放送を見ることだった。「ふぞろいの林檎たち」(新潮文庫から出ていた脚本も買うほど好きだった)や「東京ラブストーリー」(始まる時間に間に合わず途中から。しかし、なぜ、このドラマを夢中になって見たのかわからない)などなど。おそらく娯楽があまりなかったからだろう。
それと、この年にはじめて、橋本治の『桃尻娘』(講談社文庫)を購入、以後このシリーズをはじめ、橋本治の本をよく読むようになった。きっかけは、学校で課題図書を購入するということで、そのリストに『桃尻娘』がなぜか入っており、なんだかタイトルが珍しかったからだ。
平成最後の年の1月、橋本治が亡くなった。私の中での数少ない「平成」がひとつ消えた。*1
僕の平成史(2)〜目立つがこころは開かず〜
平成2(1990)年は14から15歳。中学2年から3年になり、もっとも情緒不安定な時期に差し掛かる。世間では「中二病」(伊集院光)なる言葉があるが、中学2年の時よりも後々の方が「中二病」の定義に当てはまるような言動・心情だったような気もする。
さて、14歳の冬に生徒会長選挙に立候補「させられた」。立候補したのではない。「させられた」のだ。当時、私は何もしなくてもなぜか目立ってしまう存在で、それをうまく利用できるほど器用な人間でもなく(今でもそうだ)、よくわからないままクラスの総意として立候補させられた。にもかかわらず、応援演説を誰にするかという時、当時それほど仲のいい訳ではなかったAくんが応援演説をすることになった。今にして思うと、Aくんは比較的大人しく(というか気弱に)思われていて、彼もまた断れず、さほど仲良くない私の応援演説をしてくれたのだろう。
選挙当日、立候補演説をやることになったのだが、何て言ったのか全く覚えてない。想像するに、ありのままに正直に「僕はやりたくないです。だから僕に投票しないでください」みたいなことを言ったのだろう。フタを開けると、私はぶっちぎりの最下位だった。とはいえ、あんなことを言ったにもかかわらず、クラスの全員が私に入れていない事実に、私は密かに打ちのめされていた。おまえら、オレがいいと思って勝手に推したくせに、結局投票しなかったのかよ、と。この出来事から、私は表面上は明るく振舞ってはいたものの、心の中では決して気を許すまいと決意した。
今にして思うと、別に仲がよくない私の応援演説をしてくれたAくんのことを思えば、「僕に投票しないでください」など相手の気持ちを無視するような発言はすべきではなかった。その点は申し訳なく思っている。しかし、この時のクラスの総意という名で担ぎ上げられ、結果として梯子を外されたような気持ちにさせられた(と勝手に思った)ことは、私の心根に深くくすぶり続けた。きっと、クラスの皆はこんなことを覚えてはいないだろう。
ちなみに、Aくんはのちに30歳そこそこで、栃木県を代表するいちご農家として大々的にメディアにとりあげられることとなる。そのことを知った時、ちょっとだけ驚いた。私は人を見る目がないのだ。(続)
僕の平成史(1)〜「平成」のはじまり〜
とタイトルをつけてみた。ネタ元は安岡章太郎の『僕の昭和史』。私にとって思い出の書籍である(この話は後ほど)。
さて、そろそろ「平成」という元号はついていた時代が終わろうとしている。振り返ると、平成元(1989)年の時は13歳から14歳にかけて。中学1年の冬から中学2年の冬にかけてである。明確に元号が切り替わるということは、そうたくさん経験できることではないので、残り1カ月を切った「平成」を、自分なりにメモがわりに振り返ってみようかなと思う。
昭和天皇が亡くなった*1時の記憶は意外にも残っている。それは死ぬほど嫌いだったマラソン大会が昭和天皇が亡くなり中止になったからだ。私が住んでいた田舎には、御料牧場という皇室の台所ともいうべき大農場があった。その周辺を走るマラソン大会が毎年年明けの第2日曜日に開催していた。
当時、陸上部に所属していた私は短・中距離を専門にしていたものの、長い距離を走るのが大っ嫌いだった*2。陸上部は強制的にこのマラソン大会に参加し、4kmを走ることになっていた。だから、昭和天皇が1月7日に亡くなったというニュースを聴いた時、「これでマラソン大会に出なくて済む」と喜んだ。
私にとっての「平成」のはじまりは、そんな訳で極めて個人的な理由から、嫌なことから解放してくれた、いわば恩赦のようなものだった。(続)
懐かしさを感じた本
久しぶりに「懐かしい」と思えた書籍を読んだ。哲学者の國分功一郎氏と編集者で研究者でもある互盛央氏の共著『いつもそばには本があった』(講談社選書メチエ)である。
何が「懐かしい」と思ったのか?それは、丸山圭三郎(1933-1993)の名前がいきなり出ていたからだ。丸山はスイスの言語学者のソシュールの研究者という顔よりも、1980年代から90年代はじめにかけて当代きっての言語哲学者だった。私は学生時代、丸山の著作に深く感化された。名著『文化のフェティシズム』(1984)を手にしてから、『言葉と無意識』(1987)、『言葉・狂気・エロス』(1990)を夢中で読んだ。そして、丸山の著書からフランス構造主義の人たち(とりわけロラン・バルト)を読み、井筒俊彦(1914-1993)の『意識と本質』(1983)を読んだ。何よりも、丸山の文章は彼が言及する著書や人物の書物を読みたくさせる魔力があった。
また、互氏は懐かしい人物の名前も出してくれた。思想史家の生松敬三(1928-1984)だ。私が一番影響を受けたのは生松だと言える。彼のおかげ(せい)でドイツ思想史に深く沈むことになった。生松の代表作ともいえる『二十世紀思想渉猟』(1981)は、間違いなく私にとって青春の一冊である。とにかく文章がうまいし、登場人物たち(といっても哲学者や思想家やら藝術家などなど)が生き生きとしていた。そして、生松が訳した本(かなりの数である)にどれだけ恩恵を受けただろう。
しかし、丸山にしても生松にしても(ちなみに、二人とも中央大学の先生だったので、私は中央大学大学院を受験した。事務室で待っていたその時、たまたまふらりと事務室へやってきた生松の盟友・木田元を見た時はなんだか感動した)、すでに二人とも鬼籍に入っていた。互氏や國分氏とはほぼ同世代(といっても、ちょっとだけ私の方が年齢は下であるが)であるが、二人の影響力は2019年現在よりも、まだまだあった。丸山や生松の書籍が今よりも簡単に手に入ったということが大きいだろう。しかし残念ながら、丸山も(2014年に岩波書店から著作集は出た)生松も忘れられてしまった人になりつつある。それもまた、著書が手に入りにくいということが大きいだろう(特に生松は)。
二人の著書に感化されてから、そろそろ四半世紀が経とうとする。思想史の世界から離れて、どういう因果か、今は歴史についてあれこれ書いている。というよりも、ある地方の事象についての「精神史」を書いていると言った方がいいかもしれない。そういう意味では、私は丸山や生松の影をずっと追い続けていたのだろう。
『いつもそばには本があった』は、それぞれの書籍が星座のごとく並んでいるという光景こそが、精神史の醍醐味であることを改めて思い出させてくれた。この精神史は日本において、1990年代に思想書などを読んできた人たちの精神史とも言える。そう思ったのは、きっと今が私にとっていろいろな意味での曲がり角にきているからなのだろう。
- 作者: 國分功一郎,互盛央
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