SIM's memo

Books, Foods, Rock 'n' Roll…and more!

今日もなんだか

 ここしばらく、こちらでブログを書いていないためか、妙な広告が表示されるようになってしまった。そんな状態は、なんだか庭の手入れをしていないような、どこか落ち着かない気分と似ているので、久しぶりに書こうときめた。
 
 ここ数週間、公私ともにちょっとしたトラブルが発生し、真綿で首を絞められるような状態になっている。半分は僕のせいなのだが、感情的にいろいろと割り切れない思いもなきにしもあらずである。加えて、自分自身が嫌いになるような気持ちにもなり、その話(というか愚痴)を他の人に話す気持ちにもなれず、ただ息苦しい状態がおき、大きく息をしないと辛い状態が続いている。まわりから見れば、僕の今の状況は順調に見えるかもしれないが、疲れているのか、働かないと生活できないので、ゆっくり休むこともままならない。

 そのせいか、体調もずっとおかしい。耳の中が痛くて病院へいくも、特段炎症を起こしてもおらず、肋間神経痛のような症状では?と言われ腑に落ちないままでいる。肩こりもひどく、頭皮も人生最高に凝り固まった感じだ。そして、首もずっと痛いし、口も乾くし、なんだかねばねばした感じもする。不快である。
 先日、人里離れた湯治場に行ってはみたものの、漱石の『門』よろしく、何も改善されず、気分もすぐれず、ただ疲れただけだった。
 
 本も読む気がおきないのだが、読まないと頼まれた企画案がつくれないのでなんとか読まないとと思っていたが、夕方になってものすごく疲れてしまい数ページ読んだだけでダメだった。今週末、頼まれている講座の講師の用意もままならず、当日話せるかどうかという不安もある。
 
 とにかく、疲れて、お金がなく、だけど仕事は処理しなくてはならないという、妙な悪循環が続きながら、師走を迎えるのが、なんだかとても嫌な気分である(句読点を多く使ってしまうあたり、疲れが重くのしかかっているなによりの証だと気づいた)。

言葉はこわい

 昨今なにかと話題の「生産性」なる言葉は、どうやら2018年の新語・流行語大賞にノミネートされそうな感じがして嫌である。ところで、杉田水脈衆議院議員が、『新潮45』2018年8月号への寄稿文「『LGBT』支援の度が過ぎる」の中で、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と書いているが、そもそもここでいう「生産性」という言葉を杉田議員はどういう意図で書いたのだろう。
 
 言うまでもなく、「生産性」という言葉は経済学の用語であり、生産活動に対する労働や資本などの寄与度、あるいは資源から付加価値を産み出す際の効率のことをいう。その背景には、少ない労力と投入物(インプット)で、より多くの価値(アウトプット)をうみたいという考えがある。
 
 さて、杉田議員がいう「生産性」と経済学でいう「生産性」は似て非なる意味が託されている。杉田議員の場合、単純に子供を「産」む=「生産性」があり、最終的には国家に益するという流れの中での意味として使っている。とはいえ、わずかながら、上記で述べた経済学でいう「生産性」の概念と呼応していなくもない。杉田議員の論理でいけば、少ない労力=1人の女性から、より多くの価値=子沢山、と置換ができそうである。ちなみに、杉田議員の論理における価値とは、「国家」に寄与するかどうか、という点にある。
 実は僕が一番恐れているのは、こうした杉田的価値観のみならず、人間の尊厳とその多様性をある言葉でパッケージ化し、ラベリングして判断を下し批判する行為のもつとてつもない威力と、言葉の持つあいまいさが結果として言葉にある意味を託しやすくしている点である。今回の一連の杉田議員による寄稿文は、その内容もさることながら、言葉のもつ威力と凶暴性をまざまざとみせつけられた。

結局、うまく休めていない

 今日は休日だったが、なんだか休んだ気がしなかった。なぜなら、以下の行動を見れば、その一端がわかるだろう。

  • 午前9時半、所用があり実家に。ソファーに愛猫りんご(♀もうすぐ19歳)がぐにゃーっと横になっていた。「りんご」と呼びかけても無視。用が済み、帰る間際にまた「りんご」と呼びかけても無視。悔しいので、鼻の頭を軽く撫でながら、喉元をさするとゴロゴロいっていた。で、もう1回呼ぶも無視。
  • 昼に松屋ポークソテー定食を頼む。今ならライス大盛り無料とのことで注文するも、「大盛りは60円になります」と言われ、「あ、今は無料だというので・・・」と言いかけると、ベテランさんらしい店員から、「今は無料だから!」と注意され、「失礼しました〜」とかるーく言われる。
  • 午後、高校の大先輩でお世話になっている方と一緒に、お世話になっている方の講演会へ行く。講演終了後の質疑応答で、おばさん2人とおっさん1人の質問が、聴衆の面前でする内容ではなく(いずれも、感想と会場が遠いからまちなかでやってくれという要望)なんだかなあっと思う。
  • 夕食に行きつけの餃子屋さんへ。お店の油の臭いで気持ち悪くなりそうになるも、餃子がうまいのと店のおばさんがいい人なので救われる。

さて、これでリラックスできた休日と言えるだろうか?別に用をこなしたような感じがするだけだ。しかも、読書をまだしてもいない。これから風呂に入って、ハーゲンダッツのストロベリーを食べて、明日からの怒涛のヘラヘラweekに備えよう。

息抜きの方法がよくわからない(承前)

 そんな訳で、昨日市内の大型ショッピングセンター内にある書店へ足を運んだ。目的は一昨日発刊した担当本チェック。人文系・郷土本系はどうしてもあまり目立たない棚に置かれてしまう。ここの書店は、土曜日ということもあり賑わってはいたものの、棚周辺には誰もいなかった。
 私の担当した本は表紙カバーは目立つようにしたにもかかわらず、なんだか目立たない場所に置かれていた。なので、なんのためらいもなく目立つ場所に勝手にかつこっそり移動。ライバルの出版社の書籍を横目にみながら、ライバルの出版社の書籍をじんわり目立たない場所へ追いやる。果たして、こんなことをしたところで、一人でも多くの方たちの手に届く訳ではないのは痛いほどわかっている。だけど、やらずにはいられない。広大すぎる荒れ野を先が見えないとわかりながらも、実りの秋を信じて耕すようなものである。
 
 結局、書店へ行っても仕事のようなことをしてしまい、息抜きができなかった。曇天の下、ドライブをしようとするも、今一つ気持ちものらないし、ましてカフェやら喫茶店やらでお茶しながら読書もしたい気持ちも失せていた。気がつけば、ずっと目眩に似たクラクラするような感覚がある。首や肩甲骨が凝っているのが自分でもわかるくらい。なんだかなあ、である。
 
 やっぱり、1日くらいは仕事のことなど何もかも忘れるような状況をつくらないとダメかもしれない。パフォーマンス向上という意味でも必要なのだろう。

息抜きの方法がよくわからない

 どうも自分が思っている以上に、精神状態が不安定らしい。自分でいうのもなんだが、表面上は焦ったり目に見えてイライラしているようには見えてない(と思う)。けれども、どうもうまく息抜きができていないんだろうな、と思ったりしている。
 
 今までは、喫茶店などへ行っても落ち着かず、飲み物や食べ物をいただいたら、すぐに店を出ていた。否、そもそもそういうところへは行かなかった。しかし、40を過ぎて小金が多少できたせいもあろうが、喫茶店で読書したり、こまごまとした仕事をしたりして、気づくと2〜3時間経っていたということがよくある。しかも、とても落ち着いた気分で読書など集中していることに気づいた。今更ながら、きっとこれが自分にとっての息抜きなのだろう。
 
 最良かつ最上の贅沢な息抜きは、おそらくどこか遠くへ行くということなのだろう。時間など俗世のしがらみから解き放たれることが許されるのであれば、旅にでたい。そういえば、今年は何かにつけて「どこかへ行きたい」と言っているような気がする。精神的な疲労がかなり蓄積されているのだろう。
 時間の使い方、うまい息抜きの方法を会得したい。そもそも、これって意識して会得できるのだろうか。そんなことを書いていたら、どこぞのアヤシイセミナーから勧誘されそうだが、根がめんどくさがりやなのできっと行かないし、聞く耳ももたないだろう。
 そんな訳で、気分転換も兼ねて書店へでかけてみた。(続)

今年ももう半年終わっちゃったよ、参ったなあ〜

 今日から7月。もう2018年も半分終わってしまった。早いぜ、2018年。しかも、ここ数日何が驚いたかって、6月中に梅雨が明けたこと。生きているうちに、6月梅雨明けを経験するとは思いもしなかった。そんな訳なので、6月はとにかくバタバタしていた。5月31日に横浜アリーナでマジ歌ライブへ行ってから、アップダウンの激しい日々を過ごしていたので、6月はあまりいい意味ではなく、夢のような日々だった(厳密に言えば、5月31日からかもしれない)。6月に起きたことを以下に備忘録的に記載しておく。

  • 預かっていた90年ほど前のさる著名な方々を撮影した写真(プリント)の右端がなんらかの原因で破損してしまう。だれがやったかはわからないが、所蔵者の寛大なるご配慮とこの写真を使うために奔走した著者の懐の深さを差し引いても後味の悪い状況になり落ち込む。
  • さる有名な神社の広報担当者に、目下の企画について内政干渉かと思うくらいのダメだしをくらい落ち込む(しかも、指摘された数々が悔しいかな正鵠を射ていた)。
  • 自分が思っていた以上に、テキトーでチャラい人間だとわかり落ち込む。
  • 読書がまったくはかどらず、気持ちがさざなみだっている。
  • この人がいなかったら今の僕がいないと言っても過言ではないくらい大変世話になっている研究仲間が、かなり重篤な病と闘っていることを知り、いまだにその事実を受け入れらずにいる。

ざっとこんな感じ。「なんだ、そんなのよくあることじゃねーの?」と突っ込まれそうだし、それはそうなのだろうけど、真綿で首を絞められるように、僕から雀の涙ほどの自信を奪い取っていっているような感覚になりげんなりしている。
 
 とはいえ、焦るとよい方向へはいかないだろうから、THE ALFEEの"メリーアン"を歌いつつ(結構唄えた)、脳内では意味もなくラッツ&スターの"め組のひと"が流れてしまう日々ではある。

花残月漫読記

 ♪April come she will〜って歌ってのはSimon & Garfunkel(のArt Garfunkel)だが、まったく早いもので世の中はGWです。そんな中でも、今回も何を読んできたかを列挙していこう(以下、著者(訳者・編者名)『タイトル』(出版社、発行年):読了日を明記)。

  1. 野村 玄『豊国大明神の誕生』(平凡社、2018年):4月8日
  2. 梨木香歩海うそ』(岩波現代文庫、2018年):4月22日
  3. 堀川惠子『教誨師』(講談社文庫、2018年):4月23日
  4. 若林 恵『さよなら未来』(岩波書店、2018年):4月25日
  5. 松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、2017年):4月29日

 
 1は豊臣秀吉没後に朝廷から与えられた「豊国大明神」をめぐる問題を丁寧に読み解いている。気鋭の歴史学者だけあって、問題設定(意識)も仮説を丁寧に積み上げ、証明していくところは面白い。
 2は南九州の架空の島を舞台に、昭和初期に調査に訪れた人文地理学者を主人公にした小説。木々や虫、鳥たちの描写は言うに及ばず、主人公を取り巻く島に暮らす人々を描く筆致は、どこまでも透明に思えた。かつて、島に暮らす人々が身近に感じてきた神々の息吹が、明治期の廃仏毀釈と政府による国家神道という制度によって押さえつけられていく。その中でも、敗戦を経て、高度成長期を迎え、島が開発されていく様を50年後に訪れた主人公のなんともいいようのない無力感と寂寞感は、主人公が若き日に触れてきた島の人々が持っていた透明感と対称的に思えた。
 3は重い書籍である。本書の主人公である僧侶で教誨師の渡邉普相の半生は、僕たちと同じく、人間的な余りに人間的なものである。そう思わるのは、渡邉を教誨師の道へと誘った僧侶・篠田龍雄の生き様である。とりわけ、印象深かったのは以下の箇所である。死刑執行が再開された昭和42年10月、篠田が教誨師として、小菅刑務所で死刑執行に立ち会った際の話である(渡邉は初めて死刑執行に立ち会った)。

「先生!私に引導を渡して下さい!」
刑務官たちの手が止まった。みなが篠田の顔一点を凝視した。渡邉は焦った。浄土真宗に「引導」などない、どうする。すると篠田は迷いなくスッと前に進み出た。そして桜井に正面から向き合った。互いの鼻がくっつくほど間合いを詰め、桜井の両肩を鷲摑みにして、しゃがれた野太い声に腹から力を込めた。
「よおっし!桜井さん、いきますぞ!死ぬるんじゃないぞ、生まれ変わるのだぞ!喝ーっ!」
桜井の蒼白い顔から、スッと恐怖の色だけが抜けたように見えた。
「そうかっ、先生、死ぬんじゃなくて、お浄土に生まれ変わるんですね」
「そうだ、桜井君!あんたが少し先に行くけれど、わしも後から行きますぞ!」
潤んだ両の目に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだと思った途端、その笑みは白い布で隠された。そこからは、わずか数秒のことだった。(240ページ)

生きて償えないほどの罪を背負った死刑囚たちが死刑になるのは、犯罪のことを考えると当然だという意見もあろう。けれども、人が、制度の下で命を奪うというのはどういうことなのか?この問いは僕たちひとりひとりに突きつけられていた問いであることを、改めて痛感させられた。
 篠田は終生、虫はおろか、木々の枝をも折ったり切ったりすることを忌み嫌うほど、徹底して命を大切にしてきた僧侶だったという。
 
 さて4と5である。4は、僕が唯一定期購読していた『Wired』という雑誌の日本版編集長として活躍していた人の原稿をコンパイルした書籍。やや玉石混交感は否めないものの、キラリと光る文章は視点が数多くあり、2段組で500ページ以上というかなりのヴォリュームだが、一気に読める。
 5は僕と同い年の文化人類学者がエチオピアで経験したことを通じて、人と人とがかかわり生きていくとは何か?を「うしろめたさ」をキーワードに綴った書籍。個人的には、エチオピアでのエピソードの方が断然面白く、また活き活きしていると思った。
 新緑がきれいな5月である。仕事がいきなり忙しくなったが、どんな書籍を読もうか楽しみながら過ごしたい。
 
★4月で面白かった(というか印象深かった書籍は)こちら。

教誨師 (講談社文庫)

教誨師 (講談社文庫)

一気に読まずにいられなくさせる筆致と構成に言葉を失くします。

今になって気づいた転機

 先日、親しくさせてもらっている年上の方と温泉へ行ってきた。ちょうどよい湯加減の露天風呂へ行き、頭にタオルをのせながら、音楽の話題、そして高校時代の話に流れた時のこと。

SIM:「高校1年の頃、まわりとはかけ離れてFacesとSimon & Garfunkelを聴いていたんすよ。だから、結構こじらせていたと思うんです。いろんなことを。あ、だけど、こんな僕にも告白をしてきてくれた女の子がいたんす」
年上:「へぇー、で?」
SIM:「朝、電車の中で、知らない女子高生からいきなり、『友達があんたのこと好きだと言ってるんだけど、話してくんない?』って言ってきて」
年上:「SIMくんに話しかけてきた女の子って、ヤンキーなの?」
SIM:「いえいえ、ソフトボールやっていたショートカットの女の子で、顔見知りではあったんす」
年上:「で、SIMくんはどうしたの?」
SIM:「とりあえず、好きだと言ってきてくれた女の子ととちょっと話して、なぜか僕が自宅の電話番号を教えて彼女がかけるという状況になっちゃったんですよねぇ」
年上:「で、向こうは電話かけてきたの?」
SIM:「はい。その日のうちかどうか忘れちゃったんですが、電話かけてきてくれて。ドキドキしましたよ」

その電話でその奇特な彼女から告白されたのだが、何せどういう人で、どんな性格の女の子なのだかわからないので(ただ珍しい苗字だった)、いいも悪いも答えられなかった。なので、ヘラヘラと「あ、ありがとう」と童貞感まるだしでお礼をいったのは覚えている。
 
 さて、問題はここからである。今の僕なら、好きでも嫌いでもなければ、男子校の薄暗い生活から抜け出せる一条の光のようなこの出来事にすがりついて、付き合えばよかったのである。しかし当時、FacesとSimon & Garfunkelとサディステック・ミカ・バンドとBadfingerをこよなく愛していた僕は、彼女と付き合うことをせず、カッコつけてしまったのだ。こじらせ感、ここに極まれりである。
 人によっては、お前が彼女と付き合うと判断しなかったのは、ふつーだと言ってくれるかもしれない。しかし、もしここで彼女と付き合っていたら、こうしてこのネタを広大無辺のインターネット世界の片隅で書くこともなかったろうし、音楽関係のラジオ番組に出ることもなかっただろうし(まして、Facesやサディステック・ミカ・バンドの特集をやるなどなかっただろう)、出版関係で働いてもいなかっただろう。そんなことを年上の方に話したら、「そりゃあ、そうだよ。間違いなく、やってないで、ふつーにサラリーマンになって結婚してただろうね」と言われてしまった。
 
 今にして思えば、あの時彼女と付き合っていたら、僕の人生は今とは景色を見せていただろう。人の痛みにも、少しは早く気づけたかもしれない。そんなことを星が見える夜空の下で、頭にタオルをのせたおっさんが、付き合わなかったという事実を自分の人生の転機だと確信したのだから、そうなのだ(根拠のない自信だが)。
 
 彼女が今何をしているかわからない。きっと幸せに暮らしているのだろう。今あったとしても、きっと僕のことなぞ覚えてないはずだ。覚えてないはずだが、当の僕はというと、どういう因果か、彼女と同じ苗字を冠した神社を目下の企画本でとりあげようかどうかと、ずっと逡巡している。