SIM's memo

Books, Foods, Rock 'n' Roll…and more!

仕事とコミュニケーション(1)

どうもご無沙汰しております。
夏ですねぇ。
暑いですねぇ。
みなさん、素敵なお盆をお過ごしかと思います。
小生、お盆関係なく、貧乏暇なし、仕事に邁進しております。
仕事に追われ、読書もままならない今日この頃。
最近思うことがあるのです。
なんだかんだ言っても、結局仕事は相手といかにコミュニケーションをとっていくか。
これに尽きるなと。
コミュニケーション如何によっては、仕事の質がかなり変わってくると思うのです。
「そんなの知ってるよ。当たり前だろーよー」とおっしゃらないでください。
小生、最近になってようやく実感したのですから。
そんな訳で、最近感じた「仕事とコミュニケーション」について、いくつかケース・スタディとしてつらつら書いてみようと思います。
 

case1:途中で引き受けた仕事。船頭が見当たらず路頭に迷う

 とある書籍の編集をいきなり任された時のこと。発行元の担当者がいっぱいいっぱいで、伝言ゲームもままらなず、ライターさんたちも誰に指示を仰げばいいかわからないという状態の中、ポイッと小生へ編集業務が回ってきました。
 当然ながら、まずは現状を把握しないといけません。けれども、全体像をわかっている人が誰もいないこと、そして発行元の担当者が仕切っているとばかり思っていたのですが、蓋を開ければ誰も仕切っておらず、宙ぶらりんの状態のまま。しかも、書籍をあと1ヶ月で出さないといけないというふざけた状態でした。
 小生がとった行動は次の3点。

  1. まずは関係者に電話ではなく直接会って、現状を把握し、今やるべき点を洗い出したこと。
  2. ライターさんたちの力量を見ながら、デットラインを再度確認。改めて締切日を設定
  3. とにかく、へらへらニコニコして、たまに冷たい飲み物を差し入れする

あとは、いざとなったら「申し訳ございませ〜ん」って地べたに頭をくっつければいいやと思っていました。
結果的には、なんとか納期にも間に合い、ライターさんたちからクレームもなく、小生が校正で頭を抱えただけで済みました。
教訓として学んだことは、途中で引き受けた仕事を完遂する場合、まずは身体を動かした方がいいということ。
いろいろ難しいっすね。(続)

小林多喜二の最期を綴った書簡をめぐって(2)

石井友幸書簡を読む(1)

 では、今回公開された3通にはどのようなことが書かれているたのか?まず、昭和37(1962)年1月10日付書簡(便宜上、「書簡A」とする)を見てみよう。小林多喜二が築地署で拷問を受けて息をひきとる際、「『日本共産党万才(ママ)!』とさけんだというのはまちがいで、それは多喜二をいたずたらに英雄化せんとする浅薄な試みである」と述べている。そして、江口渙が多喜二が房にほうりこまれた時に多喜二の母親への伝言を言ったように書いているが、このことも石井は「多喜二は房の中に入れられたときは、口もきくことができないほどに危篤状態になつていたように思いますので、私は小林のとなりの房にいて耳をしまして(ママ)いましたが、多喜二は苦しさでたゞうなつているだけで、ひとことも口をきかなかつたように思います」と否定している。とはいえ、石井はつづけて「しかし私は小林の房の中にいたのではありませんので、このことがまちがいなくそうだといいきる自信はありません」とも述べている。
 そして、多喜二が拷問死をして房から運び出されたときのことを次のように綴っている。

房内のみんなが『赤旗の歌』をうたつたことはまちがいのない事実で」「小林が殺されたことに対するくやしさと憤りとで、じつとだまつていることができず、きわめて自然に『赤旗の歌』をうたうきもちになつたものと思います。私もそんなきもちで、みんなといつしよに歌をうたいました。歌は房内がいつせいにうたいだしたので、看守はどうすることもできず、私たちはあの歌全部をうたいきることができたのでした。

最後に石井は自らの記憶を基に、築地署の略図を書いて、手紙をしめくくっている。
 
 さて、書簡Aの冒頭で「昨日小林多喜二の最後のありさまについて御手紙さしあげましたが」と綴っている。今回、江口旧宅で見つかった2通の書簡と1通のハガキの前に、石井は江口に手紙をしたためていたことがうかがえる。しかし現時点では、江口旧宅で昭和37年1月9日付にしたためたであろう石井からの書簡は見つかっていない。
 ところで、昭和42(1967)年6月、日本共産党中央委員会発行の『文化評論』(第67号)に、「江口渙氏への手紙―小林多喜二の最後について」と題した石井から江口へ宛てた書簡が公開されている。こちらは、昭和42年3月7日付(書簡B)だが、『文化評論』誌上には編集部でところどころ「編集」している。たとえば、『文化評論』では書簡Aに添付された築地署の略図が描かれている。また『文化評論』では読点がふられている箇所が2つあるが、書簡Bには読点はまったくふられていない。とはいえ、書簡Bの文意は変更していない。
 この書簡が誌上にでて、どのような反応があったのかはわからない。48年の時を超え、一度は陽の目を見た本書簡が、小林多喜二研究の深化、そして資料発表の時期とタイミングによって、その反応が変わることにつくづく考えさせられる。(続く)

小林多喜二の最期を綴った書簡をめぐって(1)

 2015年2月17日付毎日新聞社会面で「小林多喜二:最期、生々しく…隣室収監の学者が書簡に記す」が掲載された(webサイトでは16日夜配信)。

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使い分けの効能

 ある日、カフェを3ヶ所使い分けていることに気がついた。
 
 ひとつめはすぐ近所にあるカフェ。打ち合わせなど仕事で利用している。すぐ近くが市役所で駐車場があるため、ちょっと遠方の方でも来やすい。そしてお店の雰囲気もよく、食事が結構おいしいこともあり、とても利用しやすい。
 ふたつめも近所にあるカフェ。こちらはプライベートで人とあう時に利用している。骨董屋さんで仕入れてきた椅子やテーブルが絶妙に配置され、挽きたてのコーヒー豆の匂いが店内に充満している。照明も明るすぎず、暗すぎずでちょうどよい。ドリンクやアルコールが種類が豊富で安い。しかも料理も美味しいから、仲良くしている人といくには最適。
 みっつめはちょっと遠くにあるカフェ。こちらはひとりでしか行かない。嫌なことがあったりすると、ここへ行って落ち着いてくる。こじんまりとした店内で落ち着いて原稿チェックや読書ができる。オーナーさんが同世代ということもあり、あれこれ話をするのも楽しい。常連のお客さんとも話ができるのもいい。食事は実家の無農薬野菜を上手に使った料理を出す。美味しいのはもちろんだが、素材への愛を感じる。こういう料理を提供するオーナーさんをひそかに尊敬している。
 
 僕はある場所やモノを使い分けることが好きなのだ。実はボールペンだって、手帳用とメモ書き用、封筒に書く用でも異なるものを使用している。本も、寝床用と電車用、出先用でも読み分けている。
 使い分けることの効能は、なんといっても気分転換とちょっとした刺激、そして愛着をもって生活すること。ちょっとした楽しみを持ちながら生きていかないと、退屈してしまうと思っているのだろう。こうして書いていると、意外と今の生活もまんざら悪くないと思っているのかもしれない。

一期一曲(40)

The Isley Brothers "If You Were There"(1973)
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 半世紀余りのキャリアを通じて、1970年代におけるThe Isley Brothersはとにかくスゴかった。何がスゴいって、ファンキーでありグルーヴィーでありメロウであり、そしてポップだった。R&Bというジャンルの垣根を軽々と越えて、かれらは燦然と輝いていた。その輝きを象徴しているように感じるのがこの曲。Sugar Babeの"DOWN TOWN"のイントロの元ネタとして、知る人ぞ知る曲でもある。もしかしたら、WHAM!のversionの方が有名かもしれない。けれども、個人的には断然オリジナルである。
 
 冒頭のクラヴィネットの音とドラム・パターンの絡みが気持ちがいい。ファンキー&グルーヴィー&メロウ&ポップという要素のすべてが詰め込まれている。そこへロナルド・アイズレーの湿り気と色気のあるヴォーカルが入ってくる。これがたまらない。そしてラストのコーラスもまたよし。音づくりの骨格は基本的にシンプルなのだが、シンプルであるが故に、これを完成度の高いものへ仕上げていくのは難しい。わずか3分20秒あまりでこれを聴かせるのだから、恐れ入った。本来ならば、もっと長くても文句は言われないはず。けれども、かれらは程よい尺で仕上げた。これもThe Isley Brotherの魅力だ。
 
 この曲をはじめて聴いたとき、狂ったように毎日聴いていた。そして聴きながら、アルバイト先である某菓子メーカーの倉庫へと向かっていった。この曲を聴くと、その時のことを思い出す。あまりにも不釣り合いで笑ってしまいそうだけれども。
 

3+3(紙ジャケット仕様)

3+3(紙ジャケット仕様)

 
 

積読状態の書籍で振り返る2014年

 なんだか2014年があっという間に過ぎていってしまうと感じるのは、年齢のせいなのだろう。気がつけばもう大晦日。毎年、拙ブログで我が読書を振り返っているが、今年は視点を変えて、2014年に購入し積読状態のままだけれども、気になっている書籍を3つをテーマで振り返ってみたい。

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