SIM's memo

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AVについて勝手ながら真面目に向き合ってみる(3)

何故ぼくはAVを見続けるのか?

 前回の記事で、ぼくは「何故AVを見続けるのか?」という問いに対して、「AVを通じて『ぼく』という存在をつねに対自化していかないと不安なため、そしてそんな不安な状態にもかかわらず、それが揺籃のように心地よく、逃げ場ともなるから」、「きわめてアンビヴァレントな感情のうねりが快楽となり心地よい」状態に身を委ねたいのではないか?と考えた。
 AVそのものをみたくて見ている訳ではない。その点では、AVはぼくにとっては娯楽ではない。麻薬のようなものかもしれない。かといって、ある日突然、AVを見ることを制約された場合、禁断症状がでるかといえば、おそらくでないだろう。はじめの半日は見られず落ち込むかもしれない。しかし、見られなければ、それはそれでいいと思うだろう。そう考えると、ぼくの日常になくてはならない存在でもないかもしれない。では、先にぼくはAVに自分自身の「逃げ場」を見いだしている点はどうだろう?この論理でみれば、AVを見るという精神的「逃げ場」が失われてもダメージは少ない→つまり、それほどぼくには必要な存在ではないということではないか。そう考えると、AVを見続けている理由というのは、以下の4点であろう。

  1. 「AVを見られない」という制約がない環境にいるだけ
  2. AVを見るだけの最低限な資本がある
  3. 「男性の有する未発達のエロス(関係の原理)」=アニマの枯渇と安易な補充
  4. やっぱり、AVそれ自体が好き

問題なのは、3の「アニマの枯渇と安易な補充」である。AVというソフトは、一時的にアニマを補充してくれているのではないか。アニマのエネルギーを創作へ転換すれば、AVは見なくなるのではないか?と思うが、ことはそう単純でもなさそう。現に、今年の春先まではそれなりにクリエイティブな環境で仕事をしていたにもかかわらず、AVをほぼ毎日みていた。となると、4が核心なのではと思ってしまった。でも、「AVそれ自体が好き」というのは、依存と紙一重でもある。であれば、ぼくにとってAVは麻薬的効能があるのかもしれない。もしくは、他者との歪んだコミュニケーションへの渇望もあるだろう。
 
 いずれにしても、AVを見続けている「ぼく」の根っこには、「ぼく」の暗闇があるのは確かである。そろそろ、ぬくぬくとしたこたつから脱し、暗闇につきすすむ時なのかもしれない。